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日本のアニメーションがアメリカに再び敗北を喫した1995年〜過去作の再構成に終始する日本と最新の技術で先を行くアメリカ〜

1995年は良くも悪くも日本にとっては非常にダメージが大きい年であり、社会情勢も含めていろんな変化が顕在化した時代であった。
阪神・淡路大震災にオウム真理教の地下鉄サリン事件といった歴史的大事件はもちろんだが、創作業界の方でも実は大きな変化が見受けられた年である。
有名なのはやはり庵野秀明というアニメ作家の名を世に知らしめるきっかけとなった『新世紀エヴァンゲリオン』だが、それだけではない。
ガンダムシリーズが『新機動戦記ガンダムW』、勇者シリーズが『黄金勇者ゴルドラン』、スーパー戦隊シリーズが『超力戦隊オーレンジャー』、メタルヒーローシリーズが『重甲ビーファイター』を生み出した。

他にも『スレイヤーズ』『天地無用!』があり、映画だと『人造人間ハカイダー』『耳をすませば』『GOHST IN THE SHELL/攻殻機動隊』などが挙げられるだろう。
これらの作品群、わけても「エヴァ」「ガンダムW」「ゴルドラン」「オーレンジャー」「ビーファイター」が生まれた年の特徴は全てが「過去作のリブート」であるということだ。
「エヴァ」辺りはその典型だが、当時はあのビジュアルショックが斬新だったらしいが、庵野がやったのは先人がやってきたことを90年代後期のエッセンスで再構成しているだけだ
海外でも大人気であった押井守の「攻殻機動隊」だって設定は90年代にアップデートされているものの、ビジュアルも中身もやっていることは「ブレードランナー」のエピゴーネンだ。

「オーレンジャー」は「チェンジマン」までの「80年代戦隊」の再構成、「ビーファイター」にしてもレスキューポリス三部作のエッセンスを焼き直しているに過ぎない。
「ガンダムW」は「サムライトルーパー」をベースに富野ガンダム(初代〜V)の圧縮と再構成だし、「ゴルドラン」もやはり谷田部三部作(エクスカイザー〜ダ・ガーン)のパロディだ。
そして「ハカイダー」はいうまでもなく「人造人間キカイダー」の善悪の構造を逆転させたものであり、要するにネタ的には斬新なものがほとんどなかったのである。
もっともこれは洋画も似たようなものであり、『ダイ・ハード3』『007ゴールデンアイ』辺りのような人気作のリメイクに近い要素が目立っていた。

そんな中で画期性を帯びた全く新しいアニメーションが出てきたわけだが、それが以前から何度か述べている『トイ・ストーリー』であり、日本は再びアメリカにアニメで敗北したのである。
最初の敗北は勿論戦時中のディズニーが作り上げた初期の傑作群(『白雪姫』『ピノキオ』『ファンタジア』)で先を越されたことであり、二度目の「こいつはいけない」というトラウマが再来した。
日本のアニメがSDロボを必死に擬人化したり「人間と機械」とかいう、海外だと『ブレードランナー』までで散々擦り倒された題材を必死に擦り倒しているのを嘲笑う作品を作ったのである。
ロボットの擬人化?そんなものはもう時代遅れと言わんばかりにアメリカは「独立生命体として動く玩具」というそれまでの日本人の誰も思いつかなかった世界観とストーリーをあっさりやってのけた。

しかも日本が3DCGをようやくアニメ・実写ともにようやく使い始めたという段階だったのに、ピクサーはもはやその何段階も先を行きフルCGアニメーションで映画を作るという革新まで果たしている。
国力と技術力の圧倒的な差を日本のアニメーションは再び見せつけられたわけだが、私が「エヴァ」を社会現象とかいって騒ぎ立てているのを外から「あっそ」と思えるのはそうした理由によるのだ。
「エヴァ」なんてどこまで行こうと「ウルトラマン」「ガンダム」「イデオン」といった先人が積み上げたもののエピゴーネンの域を出ないのに、「トイ・ストーリー」は過去のどの作品にもない新しさを創造した
日本はアニメーションに限らずものづくりの産業としては海外(特にアメリカ)に遅れを取っていて、1→10の応用はできたとしても0→1のベースを生み出すことが根本的にできない「猿真似」の国である。

勿論どちらかが偉大かなんて比較は無意味だが、日本はどこまで行こうとファーストペンギンになれない国であるということが1995年〜96年のあの年に改めて示されたのではないかと思う。
しかも、日本のアニメーションは技術的にもお話としてもその『トイ・ストーリー』が示した領域には到底「創造性」という点で今現在もなお到達することができていない。
実写も同じように、やはりどこまで行こうと大作を作れる環境がまだそこそこ残っているハリウッドに敵わず、「世界」といっても結局カンヌ辺りで評価されるにとどまっている。
もっともこれは日本に限らずアメリカ以外の国はどこも似たようなもので、フランスもドイツもイタリアも中国もインドも映画産業がある割にハリウッドほどの力はないに等しい。

日本のアニメ・漫画が世界に誇れる文化だとかいうのを私が俄かに信じがたい理由はそこにあって、結局ディズニーないしピクサーが初期に作り上げた画期性とそれが現在に与える刺激という点で日本はどうしても勝てない。
だから結局は意味内容で勝負するしかなくなってくるのだが、批評家・宇野常寛が自身の著作で一貫してこういう事情に触れないのはアメリカを相手にした時に敵わないことをわかっているからであろうか?

現在彼の著作『母性のディストピア』を読んでいるのだが、彼がやっているのは宮台真司や町山智浩あたりに代表される実存批評(作品の深層に社会や歴史・政治を読み込む)の一環である。
そのこと自体は構わないし、彼には明確に擁護したい富野由悠季という作家並びに彼が作り上げたアニメ作品、中でも「逆襲のシャア」は相当に熱を入れて擁護していた。
確かにあれは素晴らしい映画ではあったが、ではその「逆シャア」が、押井の「パト2」が映画の現在として世界に擁護しうるレベルのものかどうかを彼は論証できていない
上記のディズニー初期傑作やピクサーの『トイ・ストーリー』ほどの創造性・画期性・衝撃に対して日本のアニメ映画が太刀打ちできるのか?そこまでやって初めて有効な批評となるであろう。

それは興行収入がどうとかいうことではない、興行収入なんて数字は所詮その時の一過性のものであり、名作か駄作かといったことの直接的な論拠にはならない。
そうではなく、純粋な映画作品そのものがもたらす驚きや衝撃といったフィルム体験として日本のアニメ映画が果たして海外にどれだけ擁護しうるかを宇野は論じていないのである。
アニメ・特撮といった日本ならではのサブカルチャーを擁護する評論家でありながら、地位や影響力は手にしていながらやはりいまいち外に対する攻撃力が彼には不足しているようだ。
批評を全力でやるからには積極的に外に対してもアピールして欲しいし、蓮實重彦も淀川長治もそうやって日本の映画作家を擁護して世界に勝負して再評価に貢献したのである。

その意味で改めて『トイ・ストーリー』の偉大さを改めて日本で論証する動きが出てきてもいい頃だ、あれが世界にもたらした影響力は生半可なものではない。
日本の1995年〜96年に出たあらゆるアニメーションをあの一作で一笑に伏してやっつけてしまったのだから、もっとその部分も含めて「現在」として見てみよう。


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