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何でもかんでも最先端であれば良いというわけじゃない

遂に北野武監督から「CGはダメ」との苦言が呈されたわけだが、これに対して「そうだ」と思えない人は映画好きとはいえないだろう。
今は何でもかんでも最先端のデジタル技術に依存しがちだからこそというのがあるが、「CGが凄い」ことと「画面が凄い」ことは全くの別物である。
これに関しては蓮實重彦も自身の著書でしっかり明言している。

群衆と個人の追跡合戦というようなことは、映画だからできるというふうにバスター・キートンは信じているのですが、映画だからできるということと、CGだからできるということとは全く違う映画にしかできない振る舞いというものを、CGがやってのけたかというと、いまのところできていないと思います。だから、ゴジラがいくらそこらじゅうをなぎ倒していったって、そんなことはCGならできて当然だと思っても、だからこの映画が素晴らしいとは思わないでしょう。

蓮實重彦『見るレッスン 映画史特別講義』88〜89頁

蓮實が語っていた『セブン・チャンス』の問題の場面だが、今見ても「なぜこんなクオリティの高い画が実現できたんだ?」と見た瞬間に誰しもが驚くことだろう。
それこそ先日批評を書いたスーパーマリオにしたってその画面作りや動きの元はバスター・キートンであり、この動きを超える映画俳優は未だ誰もいない。
ブルース・リーやジャッキー・チェンですら越えられていないし、日本だと三船敏郎とてここまでの見事な動きを活写できていないのである。
実写で表現できない動きはどんなに頑張ったところでCGには表現できないわけであり、こういうのを見ると「なるほど」と納得される次第だ。

以前にも述べたが、私はCGや最先端のデジタル技術を使うことそのものを否定しているわけではなく、そのデジタル技術を使う側のセンス・絵心のなさを問題にしているのである。
CGで表現される画というのは所詮プログラムした以上の動きを出すことはできず、どれだけ現実に近づけようとしたところで実写でやる生身の人間の動きには敵わない。
それこそ私が『百獣戦隊ガオレンジャー』という作品を当時から今まで全く凄いと思わないのも、CGを使った画の表現があまりにもチープに過ぎるからだ。
動物たちがあんな風に動いて吠えるのはCGを使えばできて当たり前であり、あんな薄っぺらい画を見て私の心が揺さぶられたかというと決してそうではない。

それこそ『星獣戦隊ギンガマン』のギンガイオーの合体シークエンスとガオキングの合体シークエンスとを比較してみれば、その違いは一目瞭然であろう。
ギンガイオーをはじめ星獣たちの変形合体はあくまでCGを補助としてのみ使っており、実写と違和感なく融合させることでしっかり質感を出している
対してパワーアニマルは合体後の立ち絵を除くとほぼ全てCGでやってしまっており、確かに見かけは派手だがどうにも奥行きや質感がなくギンガイオーより凄いとは到底思えない。
まあそもそも「ガオレンジャー」自体が「ギンガマン」のエッセンスを劣化した形でパクっただけの代物だから仕方ないが、CGを使ったから必ずしも良いわけじゃないのは当時からずっと思っていた。

それこそ時代劇に関していえば、未だに誰一人として世界の黒澤の『七人の侍』『用心棒』『椿三十郎』『乱』あたりを超える作品を作れていないという現実がある。
大河ドラマ・水戸黄門・暴れん坊将軍等々テレビを含めて凄まじい数の時代劇が作られてきたが、世界的な認知度や映画ならではの表現という意味で誰も黒澤を超えていない
三船敏郎という俳優のお陰でもあるが、唯一神話的な意味で匹敵しえたのは以前も述べたように勝新と北野の「座頭市」くらいであろうと私は思う。
そんな北野武が今度作るのは時代劇『首』、タイトルや予告からもわかるように黒澤明の『乱』へのオマージュとして多分に意識しているだろうことが伝わる。

世界の黒澤が認めた世界の北野は果たして誰一人成し遂げていない黒澤超えを果たすことができるか?実に楽しみである。

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