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『ドラゴンボール』のピークがナメック星編(フリーザ編)までだと思う理由についてその1〜そもそも「ドラゴンボール」とは「球の奪い合いによる上昇志向」である〜

何だか久しぶりに「ドラゴンボール」について語りたくなってみたので、今回は改めて鳥山明の原作漫画『ドラゴンボール』のナメック星編までの魅力を語ってみたい。
私が書いている記事を見ればわかるように、私は「ドラゴンボール」のリアルタイム世代だが、本格的にハマったのはサイヤ人編(アニメ版「Z」初期)からである。
どちらかといえば、無印のピッコロ大魔王編までは3歳上の兄の方が熱中していたものであり、私にとってはそこまで思い入れ深いようなものではない。
だが、それでも初期の無印ファンが言う「ドラゴンボールはピッコロ大魔王編までしか認めていない」という意見もわかる、「孫悟空の物語」として見たら、綺麗にまとまっているのはそこまでだからだ。

しかし、今日ある「ドラゴンボール」の爆発的な人気はむしろこのサイヤ人編〜ナメック星編(フリーザ編)で高まった勢いとそれに伴って生じた予想外の面白さがあればこそである。
鳥山明先生の全盛期の画力が物語の破綻・矛盾ですらも軽々と超えてしまうくらいの何ともいえない熱気と迫力が、コマ割りや構図なども含めた絵の運動が今なお読者の感性を揺るがす。
キャラデザインもさることながら、あそこに描かれている全てのバトルやモチーフ・物語がしっかり繋がっており、それを契機として繰り広げられるサスペンスがとても魅力的だ。
それは人造人間編以降、今日の『ドラゴンボール超』までを含めた後期の作品群にはないものであり、また「カカロット」などのような簡略化されたゲームではその魅力は伝わるものではない。

さて、今回はまず概略として「ナメック星編」までに通底している魅力について語るが、予めお断りしておくと、あくまでも題材として扱うのは鳥山明先生の原作漫画の初期〜ナメック星編までのみとする。
それをアニメ化した無印及び「Z」や、そのスピンオフとして作られている大量の劇場版ならびに原作漫画の人造人間編〜魔人ブウ編以降に関するものは「後付け」として一切考慮しない
今回問題にしたいのはあくまでも鳥山明先生の画力がどのようにあの不可思議なものを生み出していたか、そこからどんな主題があるかを論じてみる。
なお、評価軸の全く違うものとなるであろうことも考えが変化した結果としてここに記しておくので、「以前に書いたことと矛盾しているじゃないか」という指摘には対応しない。

(1)そもそも「ドラゴンボール」とは「球の奪い合いによる上昇志向」である


今日ある商業作品としてのイメージから『ドラゴンボール』と聞くと、誰しもがある種の共通了解というかパブリックイメージを抱いていることだろう。
だいたい共通するのは「超サイヤ人」「強さのインフレ」「悟空とベジータ」「修行して相手を超える」「とんでもない強さを持った悪役」といったところだろうか。
しかしそれは鳥山明先生が描く実際の原作漫画とは掛け離れた対外的なものであり、外のイメージと実物が必ずしも一致しているわけではなく、とても誤解の多い作品である。
それが故にネットではどうしてもブロリーMADで「ベジータがヘタレ」だの「ヤムチャがかませ犬」だの「悟空がサイコパス」だのといったお粗末な消費に終始しがちだ。

だが、そうやってネタ扱いしたがる人は果たして本当に鳥山明先生が手がけた原作漫画をきちんと隅々まで読み込んだことがあるのか?きちんと原作のテイストを理解しているのか?という疑念が湧く。
以前にも私が『鬼滅の刃』を批判した時に「ドラゴンボールは現代のポリコレに配慮した作品」「根性論に対する皮肉」「悟空の正義感が突発的」「悟空は中途半端にヒーローの顔をする」といった的外れな意見が出てきた。
そういう人たちは大抵『キン肉マン』『北斗の拳』『ジョジョの奇妙な冒険』辺りのような思想性と物語性が強い作品を至上と見做し、その延長線上として『鬼滅』を褒めて『ドラゴンボール』を貶しているのである。
といって、褒める側も褒める側で、例えばBixをはじめとする「改」などで『ドラゴンボール』に参入してきた世代はやはりパブリックイメージとして形成される「強さ」のイメージばかりで語っているだろう。

もちろんそれはそれで作品そのもの見所にはなっているが、本来の鳥山明先生が描くナメック星編(フリーザ編)までの『ドラゴンボール』は「球の奪い合いによる上昇志向」である。
そう、全ては「ドラゴンボールという球の争奪戦」を題材に全ての話が展開されており、いわゆる上記のパブリックイメージはその結果として物語に従属するイメージに過ぎない
最初に孫悟空とブルマ・ブリーフが出会って冒険に出かけた時には修行だの強さのインフレだの修行して相手を超えるだのといった泥臭く汗臭い印象は全くなかった。
天下一武道会にしたって、最初に悟空・クリリン・ヤムチャ・亀仙人が出た時はあくまでお祭りというか余興として参加していた感じで、シリアスにまではなりきっていない。

レッドリボン軍編・ピッコロ大魔王編もやはり天下一武道会を挟んでこそいるが、やはり話の流れのほとんどを「ドラゴンボール」を巡っての戦いとして展開している。
ピラフ一味もヤムチャもブルマも、レッドリボン軍もピッコロ大魔王もベジータもフリーザも、善悪問わず大体の主要な人物が「ドラゴンボール」を用いて己の欲を満たそうとするのだ。
それは例えば「彼氏が欲しい」であったり「若返りたい」であったり「永遠の命」であったり様々あるわけだが、根幹にあるのは「球」をめぐってド派手な戦いが展開されることである。
そこが単純なスポ根漫画ともヒーロー作品とも異なり、「ドラゴンボール」を巡って登場人物がはちゃめちゃな戦いを繰り広げるわけであり、戦うことや強くなることを必ずしも「主」とはしていない

だからこそタイトルが「孫悟空」でも「最強への道」でもなく「ドラゴンボール」なわけであり、少なくともナメック星編まではこの「球の奪い合いによる上昇志向」が根底にある。

(2)初期は『Dr.スランプ』のシュールギャグ全開のポップなアバンギャルドと時間の省略の両立


初期の『ドラゴンボール』は特に『Dr.スランプ』が持っていたシュールギャグ全開のポップな絵柄が特徴的であり、今見直しても非常にアバンギャルド(前衛的)で他に類を見ない絵である。
アメコミ調の効果音やコミカルな動きがそうだが、サイヤ人編以降の「Z」以降にあまり見受けられなくなった特徴の1つがこの独特の丸い線であり、手塚治虫が初期作品で得意としていた丸を彷彿させる。
映画専門の親友Fはそうした初期の鳥山明先生ポップな絵柄を褒めていて、「この鳥山先生の絵は尾田先生や岸本先生など、ポスト黄金期のジャンプ漫画にはない魅力」と語ってもいた。
確かにブルマが悟空に向けて機関銃をぶっ放すところ、またブルマがおっぱいを見せたり股下を見せたりするところも実に過激な攻めた絵なのだが、ポップに表現しているためにいやらしさが然程ない

これは戦闘シーンに関しても同じことがいえ、例えば最初の悟空とヤムチャの戦いの時に出るジャン拳や天下一武道会でのクリリンとジャッキー・チュンの戦いなども必要最小限の動きをポップに見せている。
特に最初の高速戦闘の後に実況解説をするシーンなんかはこの典型で、目に見えない速さの攻防を省略で描いた後に付け足すことによって短いコマ割りでも読者が納得できる作りにしてあるのだ。
レッドリボン軍編でもその点は共通していて、悟空と桃白白の戦いなど本当に重要な人物との戦い以外はかなりあっさり目に済ませ、終始悟空に有利な状態で話が進むようにしている
しかし、だからといっていつも悟空ばかりが勝っていると読者も飽きが来てしまうから、二度目の天下一武道会では餃子や天津飯といった新機軸のキャラを出すことで簡単に悟空に優勝させない

このようにして鳥山明は手塚治虫からオマージュしたと思われる「省略」の技法を上手に活用しつつ、あくまでもポップに描くことによってスピード感とテンポをトキワ荘の連中が手がけていた時代に戻すことができている。
以前にも述べたが、ジャンプ漫画は大体スポ根やバトルが売りである反面そのバトルシーンをメインに見せなければならない関係上、戦闘はともかく時間の流れが遅く感じられてしまう問題があるのだ。
『ドラゴンボール』はその点バトルスピードも話のテンポもさほど変わらないペースで淡々と進めていくので(特に初期は)、気がつけばサイヤ人編に至るまでの間に10年以上もの時間が流れていることに違和感を抱かせない。
これは『ONE PIECE』『NARUTO』と比べても決定的に違うところであり、例えば『ONE PIECE』『NARUTO』はあれだけ物語の情報量が多い割に時間の流れはとても遅く、せいぜい劇中で2〜3年しか経っていないのだ(最終回の10年後などは除く)。

それに対して『ドラゴンボール』は最初の悟空とブルマが出会った時とナメック星編での悟空とフリーザの戦いまでの間に12年もの時間が経過しており、これはポップな絵柄であまりドラマを入れないからである。
この「省略」は漫画だからこそできる文法であり、ジャンプ漫画において『ドラゴンボール』ほどそれを上手く活用した例もないのだが、むしろジャンプ漫画全体で見るとこれが異例なのであろう。
同時代にやっていた『スラムダンク』『幽遊白書』も巻数としては『ドラゴンボール』と同じかそれ以下なのだが、劇中の出来事としての時間は1年も経っていないのである。
その意味で『ドラゴンボール』で用いられている技法はとても古典的な手塚治虫イズムの継承であり、ここを指摘しておかずにはいられない。

手塚治虫が「ちょっと彼はうますぎる、ずるい」と高く評価していたのも、単なる画力だけではなく省略の技法の体得なども加味してのことであろう。

(3)ピッコロ大魔王編から「死ぬこと」と「怒ること」が導入される


そしてピッコロ大魔王編になると「死ぬこと」と隣接する「怒ること」が導入され、これがナメック星編までを象徴する『ドラゴンボール』の1つの主題となっている。
シリアスなテイストが作品を覆い始めるのがピッコロ大魔王編だが、ここで要所要所で繰り返されるのが「死」と「怒り」であり、これが繰り返されているのがナメック星編までの特徴だ。
特に代表的なのはピッコロ大魔王編の導入とナメック星編の終盤で用いられているクリリンの死と悟空の怒りであり、この2つのシーンは『ドラゴンボール』のなかでも些か浮いた印象である。
クリリンがピッコロ大魔王に殺された時、悟空は髪の毛が逆立つほどに怒るのだが、物語としては本来ここで悟空が怒りを露わにするのはいささか唐突ではなかろうか。

親友の死に悟空の心が痛んだからというありがちなものではない、何故ならばクリリン以外の重要人物も殺されているわけで、特に師匠の亀仙人らの死を悟空は悲しむ必要があるはずだ。
しかし、悟空が怒りを露わにしたのは後にも先にもクリリンの死だけであるが、それはクリリンの「死」によって悟空の「怒り」が後に展開される激闘・死闘を契機として導入するものになっているからである。
終盤のクリリンの死と悟空の怒りは次に取っておくとして、基本的に『ドラゴンボール』の世界において登場人物の怒りがシリアスとして描かれた試しはほとんどなく、ブルマやチチの怒りもギャグとして描かれていた。
また、「死ぬこと」に関しても、実はレッドリボン軍は多数の死者を出しているのだが、それでもその死があっさりと淡白に描かれているために抒情性がまるでなくドライだ

感情的になったところで戦闘力が劇的に向上して安易に逆転することもなく、むしろ悟空は最初の戦いであっさりとタンバリンに負けてしまい、超聖水によって潜在能力を引き出して初めてピッコロ大魔王に勝つ。
それはサイヤ人編も同じことであり、サイヤ人編では悟空だけではなくクリリンや悟飯も仲間を殺されたり、殺されかけたりした時に怒りを露わにして瞬時に爆発的な攻撃力を見せる。
ヤムチャがサイバイマンの抱きつき自爆で死んだことによりクリリンの怒りが、餃子の抱きつき自爆によって天津飯の怒りが、そしてピッコロの死によって悟飯の怒りが戦いに出た。
しかし、その中で成功したのはクリリンのみであり、それとて基礎戦闘力で上回るサイバイマンをやっつけたに過ぎず、自分よりも完全な格上のナッパやベジータには敵わない。

それは悟空も同じなのだが、界王拳を習得して戻ってきた悟空はこの時も怒っているのだが、それ故に取り乱すといったこともなく戦いは極めて冷静に界王拳でナッパを圧倒した。
そう、『ドラゴンボール』が極めて熱いジャンプ漫画の王道のイメージがあるのはこの「死ぬこと」と隣り合わせの「怒ること」がキャラや物語とは直接に関係のない主題として繰り返されているからである。
しかし、だからと言って怒りによって相手の戦闘力をあっさり上回って勝つと試しはほとんどなく、あくまでも戦いの瞬間的な導火線として用いられているに過ぎない。
そこから導き出される絵の運動、具体的にはクリリンや悟飯の攻撃によって見せる迫力が読者の感性を震わせるのであり、死ぬことや怒ること自体は物語上の特別な意味を持つものではないのだ。

(4)修行シーンはあくまでも「足りないもの」を補うための手段


アニメだと引き伸ばしのために修行シーンが多いイメージがあるが、原作漫画の『ドラゴンボール』において実は修行シーンにそこまでコマを割いていない
描くにしてもそれは「足りないもの」を補うための手段として描かれているに過ぎず、決してくどくどと強くなるプロセスを描くことはないのである。
例外的に話数を割いて描いたのは悟空・クリリン・亀仙人の修行シーンや悟空と界王様の修行シーンだが、あれとて修行シーン自体は割とふざけたものが多い。
特に界王様なんて最初は「ダジャレで笑わせることが条件」というのを出してきており、界王拳も元気玉も非常にコミカルに描かれている。

例外的に苦行のように描かれていたのがピッコロが悟飯を鍛えるシーンや悟空が宇宙船でやっていた100倍の重力トレーニングだが、それもそこまで悲惨な印象はない。
悟飯はとにかく父親がいない中でサイヤ人の襲来に備えて修行する必要があったし、悟空もベジータより高い基礎戦闘力を得るために改めて基礎トレに更なる負荷をかけるという原点に戻っている。
『ドラゴンボール』が「修行をして相手を超える強さを手にする」というパブリックイメージがありながら、原作漫画での修行シーンそのものはそんなに多くはない。
何なら超聖水やナメック星の長老のように潜在能力を引き出すといった修行なしのRPGじみたパワーアップもあるので、強くなるための手段に拘泥しているわけでもないのである。

この辺りもやはり上記の繰り返しになるが「省略の技法」をうまく用いていて、読者は修行シーンそのものが見たいわけではないことを先生は心得ていた。
むしろ、当時のジャンプ漫画がそういう修行シーンに尺を割いて強くなるスポ根ものが多かったため、その逆張りとして修行をあっさり省略していたのである。
または修行シーンそのものではなく、登場人物が関係性を構築していく過程やその修行をする目的を明確にした上で無駄な修行をさせないようにした。
中心はあくまで「球の奪い合いによる上昇志向」であり、ドラゴンボールを狙ってくる強敵に一発かますだけの強さを得る手段や方法として修行があるだけだ。

だから孫悟空はそんな修行のやり方を亀仙人・神様・界王神から学んでいるために修行をしっかり終えたらそれ以上は鍛錬せず体を休めて遊ぶことにする
よく学びよく遊びよく休むということを繰り返しているだけであり、だから『ドラゴンボール』がその作品のイメージから「スポ根に対する皮肉・冷笑」と取られるのであろう。
確かに鳥山明は決してスポ根を是とする作家ではないかもしれないが、インタビューなどの発言を見てもスポ根そのものを馬鹿にするような発言はないし、そのようなことを意図したかは明確ではない。
しかし、それまでのジャンプ漫画とは違った形で修行シーンが用いられていたのは事実であり、あまり汗臭いイメージがなく爽やかに描けたことだけは事実である。

次回はここで語った基礎の考えをベースに、なぜナメック星編までが『ドラゴンボール』という作品のピークなのかについて述べることにしよう。

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