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『ドラゴンボール』がもたらした東洋思想と西洋哲学の止揚(アウフヘーベン)

本日は「ギンガマン」の黒騎士ヒュウガとギンガレッド/リョウマの炎の兄弟のことを書こうと思ったのだが、予定を変更して「ドラゴンボール」の孫悟空について書こう。
先日書いた「鬼滅の刃」に関する記事で私は「ドラゴンボールはテーマをくどくどと大上段から語ることをしない」と述べたが、そこで「ドラゴンボール」のテーマとは何か?という質問を頂いた。
私は「孫悟空が最強の武道家になること」が一貫した「ドラゴンボール」のテーマのようなものと語ったが、その中で精神論に関する見解の違いも浮き彫りとなる。
だが、そういう議論の応酬があることによって、初めて私は「ドラゴンボール」という作品が内包していたものがいかに深くて革命的であるかに気づいた。

「ドラゴンボール」は従来のジャンプ漫画のあり方からかけ離れた異端児として作品を深く知るファンからは評されるが、これは正確な言い方ではない。
少なくともギャグを基調としたアドベンチャー路線から超人バトル漫画路線に変更して大ヒットしたという意味では十分ジャンプ漫画の王道に沿っている。
そして修行を繰り返して超人じみた強さを手にしていくこと、ライバルたちとの出会いが孫悟空を高みへ誘うというのもやはり伝統に則っているだろう。
だが、「ドラゴンボール」以前と「ドラゴンボール」以後で何が決定的に違ったか?を鳥山明先生の画力や表層から伺える要素以外から語った人はあまりいない。

それにもかかわらず、今日もなお語られ続け、新作なりゲームなりが出ればファンが湧き世界中が熱狂するようなコンテンツになり得たのはなぜか?
確かに時代性も大きく影響しているであろうが、それだけだったら単に「一時的に凄いヒットを叩き出した話題作」となって消えてもおかしくないだろう。
だが、今日もなお「ONE PIECE」に負けないぐらいの考察が上がっているのには訳があるはずで、そこを今回は指摘してみようという試みである。
正しいかどうかというよりも個人的見解であるが、「孫悟空の物語」として改めて「ドラゴンボール」がジャンプ漫画に齎した革命について触れてみよう。

まず「ドラゴンボール 」の主人公・孫悟空のモデルが元々は名前からもわかるように「西遊記」の孫悟空と伝説の武道家ブルース・リーであることは誰もがご存知だろう。
そもども「ドラゴン」という名前自体がブルース・リー主演の映画「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」「燃えよドラゴン」に由来することを鳥山先生は公言している。
最初にその定義をした以上、「ドラゴンボール」が「孫悟空が最強の武道家になる物語」であることは疑いようがなく、事実最終巻までそこは一貫していた。
先日の「鬼滅」の記事にて「孫悟空はヒーローとしても戦闘狂としても中途半端だ」と反論してきた人がいたが、これが全く的外れな批判であるのは明白だ。

孫悟空はあくまでも「強くなること」を目的として純粋に武を競うことを生き甲斐としている武道家であり、彼にとっての戦いとは天下一武道会の「試合」でしかない。
彼が戦いを終えた時にどうしても必要な場合を除いて無益な殺生を避けるのは「るろうに剣心」の緋村剣心や「ガンダムSEED」のキラ・ヤマトのような不殺主義とは違う。
剣心やキラのような不殺主義は道徳・倫理観に基づく善良な意識がそうさせるのだが、孫悟空の場合は「競い合えるライバルが減るのは勿体無い」という理由からだ。
部を競い合って決着がついた以上相手を殺す必要はなく、また腕を磨いて再戦をすればいいだけの話であり、それは最終巻までほぼ一貫している。

そんな孫悟空の思想の根幹は亀仙人の教えによるものだが、この亀仙人の教えは仏教の禅宗や儒教のような東洋思想に近いのではなかろうか。
相手を殺すためでも女の子にモテたいからでもなく、人生を豊かに楽しく生きるための健康的な「生き方」として武道を学び研鑽し続ける。
これは正にブルース・リーが己の武道を追求していく中で確立されたジークンドーの思想そのものであり、ここがそれまでのジャンプ漫画と大きく違っていた。
昭和のスポ根は確かに「強くなること」が根底にあったが、そこで描かれる修行や特訓・戦いというのはどこか「苦しさ」「痛み」を伴うものである。

また、強くなる目的が「全国制覇」「世界一」といった富や名誉のような「形あるもの」だが、そうした資本主義に基づく競争は人間を戦闘マシンに仕立て上げてしまう。
孫悟空はそのような「形あるもの」に固執するのではなく、純粋に武を競い楽しくのびのびと生きることのみを目的として強敵たちと鎬を削り強くなるのだ。
つまり、それまでのスポ根漫画が多かれ少なかれ形而下学的な形あるもの、もっといえば西洋哲学に基づく覇道だったのに対して、「ドラゴンボール」はそこからの解放を目指したのである。
鳥山明先生が根性論を嫌いなことは有名な話だが、孫悟空は修行や戦い自体は一生懸命真面目に取り組むが、決して苦痛を伴うようなことはしない。

どちらかといえば、「ドラゴンボール」において従来のひたすら肉体を痛めつけるトレーニングをやっていたのライバルとして出てくるベジータである。
ベジータは重力トレーニングでひたすら肉体を痛めつけるのだが、孫悟空にとって重力トレーニングは「修行の手段の1つ」だ。
そう、亀仙人・神様・界王様・ヤードラット星人と様々な人たちから孫悟空は修行や技・考え方のノウハウを身につけているから視野が広い。
だから特定の凝り固まった教義やトレーニング方法に固執せず、その時その時で戦い方を柔軟に、水のように変化させていっている

それは正に先人のブルース・リーがその考えを提唱し実践していた人だったからであり、生前にこんな名言を残した。

1つの形にとらわれるな、形を自らのものとし、自分なりの形を作り出すんだ。それを育み、水のようにあるべし。考えを空にし、形にはまらず、形から自由になるのだ。もしコップに水を注げば、それはコップの形になる。瓶に注げば水は瓶の形になる。ティーポットに入れれば、それはティーポットの形になるだろう。水とは、流れることもできれば、激しく打つこともできる。友よ、水のようになるのだ。

正に孫悟空もかつてのブルース・リーのように一つの教えに止まらず、自分なりの美学は芯の部分に持ちながらも自分が何者かなんて一々考えない
ベジータが超サイヤ人としての誇りを持ってそれに固執し続けたり、ピッコロが神様と融合して地球を守るために動いたりするのとは対照的である。
だから孫悟空が時々ヒーローのような顔や行動をするのはあくまで武道家として動いた結果であって、それを悟空が英雄的行為などと意識したことはない。
少なくとも無印時代のピッコロを倒し天下一武道会で優勝するまでの孫悟空はこの東洋思想をベースに武道家として歩み続けていた。

しかし「ドラゴンボール」はその後人気が沸騰した影響でサイヤ人編以降も物語を紡ぐことになるが、ここで悟空は自分のルーツを知るに至る。
それは自分が実は戦闘民族サイヤ人カカロットであり、頭を打っていなかったら地球侵略を躊躇なく行う獰猛な戦闘狂となっていたという事実だ。
しかもベジータが大猿化した時に孫悟空は自分が孫悟飯(爺ちゃんの方)を踏みつけ殺した張本人であるということも知ってしまう。
ここから悟空は本来のサイヤ人としての闘争本能を取り戻していき、「地球育ちのサイヤ人」としてある意味原点回帰していくことになる。

このサイヤ人並びにそいつらを統括しているフリーザ軍が産業革命によって科学技術を発展させ世界のあちこちを侵略した欧米人のカリカチュアであるのはいうまでもない。
スカウターによる戦闘力の可視化、また相手を確実に殺すための戦闘術に発達した回復用カプセルと移動用のポッド、星の侵略という血塗られた歴史は正にアメリカ合衆国ではないか。
その中で出てきたのが孫悟空と同じサイヤ人にして終生のライバルとして出てくるベジータだが、言ってみればブルース・リーにとってのチャック・ノリスみたいなものである。

「ドラゴンへの道」のこの2人の対決は正に孫悟空VSベジータのようにも見える映画史に残る名勝負だが、チャック・ノリスはリーとは違い元軍人の傭兵上がりだ。
しかもブルース・リーとは異なる格闘術や考え方の元に育っており、それが正に孫悟空とベジータの対比のようでもある。
そういう「頭を打っていなかった場合の孫悟空」として出てくるサイヤ人のナッパ・ベジータとの戦いを通して孫悟空の戦い方も変化を受けていく。
界王拳や元気玉を身につけて強さを極めたと思った悟空だが、それを圧倒的に上回っていたベジータに孫悟空は勝てなかった。

強さを極めたと思っていたらベジータが自分より技も力もスピードも上を行く天才戦士であり、悟空はベジータを超えることを誓う。
そうして強さを極めていく中で、孫悟空はついに自分の故郷の星を滅ぼした親玉である宇宙の帝王フリーザと戦うことになる。
このフリーザがピッコロ大魔王以来となる「和解出来ない純粋悪」であり、全ての力を振り絞っても全く勝てない異次元の強さを誇っていた。
そこで孫悟空はもう一度クリリンという親友を殺されたことによってサイヤ人としての激しい怒りを己の中に取り戻し、超サイヤ人へと覚醒する。

ジャンプ漫画のみならずあらゆる漫画・アニメの歴史の中でも「覚醒」の代表・象徴として残り続けている超サイヤ人は単なるパワーアップではない
まず地球人として東洋思想としての武道を教わって強さを極め、禅の境地に到達したことで天下一武道会で優勝した。
そしてサイヤ人編〜ナメック星編にかけてその真逆の西洋哲学を基調として侵略の歴史を繰り返してきたサイヤ人と戦いルーツに迫る。
だが、地球人として強さを極めた孫悟空もサイヤ人として強さを極めたベジータも帝王フリーザを倒すという壁はなかなか超えられなかった。

その壁を超えるためのヒントが「超サイヤ人」だったわけだが、その引き金としてなぜクリリンを二度も殺す必要があったのだろうか?
それはクリリンが既に一度死んでいて、二度も殺されてしまえばドラゴンボールで復活することが不可能な存在だったからである。
クリリンはフリーザによって物語の仕組みとして初めて落ちこぼれた存在となり、その代償として孫悟空は超サイヤ人となった。
だがそれは単に「奇跡」を起こしたというだけではなく、実は東洋思想と西洋哲学の止揚(アウフヘーベン)であるともいえる。

孫悟空のように穏やかに優しく楽しく戦っているだけでは「力」という点においてサイヤ人その他の悪党が出てきた時に立ち向かえない。
さりとてベジータのように闘争本能を滾らせて私利私欲のために戦うだけでは「心」という点において本質を見失ってしまう。
水のように戦いを楽しむしなやかで健康的な心のあり方、そして戦闘狂として激しい感情を滾らせて戦う闘争本能。
その双方がクリリンの死という形によって融合し、超サイヤ人という高みへ孫悟空のみがナメック星編の最後で到達できたことになるわけだ。

そして私が「ドラゴンボール」がフリーザ編までで終えるべきだと思い、また当時多くのファンがそう思っていた理由も正にそこにある。
「孫悟空の物語」として改めて思想や哲学の観点から「ドラゴンボール」を捉え直した時、間違いなく彼のキャラクターはナメック星編で1つの境地に到達した
それは同時に「穏やかな心を持ちながら激しい怒りによって目覚める」という相反する東洋思想と西洋哲学の止揚ともいえるだろう。
正にジャンプ漫画におけるコペルニクス的転回であり、表面に描かれていない思想・哲学の部分で革命を起こしたからこそ「ドラゴンボール」は世界的ヒットを巻き起こしたのである。

「ドラゴンボール」にテーマがないということは決していないし精神を鍛えていないわけでもない、間違いなく物語の根底には一貫した思想や哲学があった
孫悟空がフリーザという宇宙の帝王に打ち勝った時、彼は紛れもなく最強の武道家として完成を迎えたのであり、それを大上段から語るのではな行動で実践することで成したのだ。
これぞ正に「語らずして語る」ことであり、孫悟空の物語として見た場合ナメック星編まではとても美しい物語の構成になっていることに気づく。
人造人間編以降になると、孫悟空ではなくベジータや孫悟飯・トランクスたちがドラマを作っていくことになるが、それはまた別のお話である。

「ドラゴンボール」が一貫性がなく底が浅い物語?とんでもない、ジャンプ漫画において実はそれ以前のジャンプ漫画の思想面から大きく流れを変えた作品だ
孫悟空はけたたましく己のことを主張するような主人公ではないが、奥底には強さに対して純粋に楽しむ心を誰よりも持ち合わせていた。
海賊王になることが目的のルフィや火影を追い越すことが目的のナルト、鬼殲滅を目的とする炭治郎とはそこで一線を画している。
そこの思想や哲学の構造を読み解くことができてこそ「ドラゴンボール」という作品の面白さをより実感できるのではないだろうか。

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