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不二周助の言う「スリルを楽しむ」の意味とは?手塚・越前との大きな違いも考察

不二周助を語る上で外せないキーワードの1つに「スリル」があり、原作・アニメ・ミュージカルのいずれにおいても不二についてはこの「スリル」が必ずついて回ります。
特にそれが不二自身の言葉として語られたのが主人公・越前リョーマとの雨の日の試合であり、この時不二は「こんなスリル感、滅多に味わえないよ」と言っていました。


この時の不二の目つきはとても普段の穏やかで嫋やかなイメージとは程遠い「人ならざるもの」のゾクッとした感じの印象を読者に与えています。
旧作の23.5のファンブックでも「鋭利な刃を笑顔で隠す」というキャッチフレーズがありましたし、新テニの23.5でも「研ぎ澄まされた風の刃で颯然と刺す!」とありました。

青学のNo.2で「天才」という響きの良い言葉で片付けられがちな不二周助につけるには余りにも物騒なワードですが、私は長年この「スリルを楽しむ」の意味がわからなかったのです。
手塚・越前・遠山の天衣無縫組が持つ「楽しむテニス」とは似て非なるものであり、不二の中では「スリルを楽しむ」ことと「テニスを楽しむ」ことがイコールではありません。
それ故に不二は長いことテニスに対して本気で打ち込むことができず、自分自身の存在意義をその中に見出すことができず自身の才能すら持て余していたのです。
そしてその才能が時に弟の裕太をはじめとした周囲の人たちを傷つけ確執を生んだという過去もあったせいか、不二は長らくテニスに対して前向きになれませんでした。

だからこそ不二は旧作で自身がテニスをする動機として手塚国光が掲げる「全国大会優勝」という利他的動機を己の中に据えることで何とか己の闘争心を引き出したのです。
しかし、その「全国大会優勝」という目標を背負ってそれをやってのけたのは主人公・越前リョーマであり、その目標が果たされると同時に不二がテニスを続ける動機はなくなりました。
元々不二がテニスを始めたきっかけ自体、姉の彼氏がテニスをやっていてその伝手で紹介してもらったに過ぎず、不二自身が全くの好奇心からテニスを始めたわけではないのでしょう。
だからこそ、青学テニス部に入部して手塚国光という逸材に出会えたことは間違いなく不二周助の中で大きな変化だったわけです、自分とは違う種類のテニスの天才に出会えたのですから。

今回はそんな不二の「スリルを楽しむ」についてある程度の答えを出しますが、個人的見解では不二の言う「スリル」とは「獲物狩り」ではないかと思うのです。
思えば不二の対戦相手は格下が多いことが長年気になっていたのですが、多分不二にとっては「確実に倒せる相手」をどう甚振って仕留めてやろうかと考えている節があります。
特に弟の裕太を自分の作戦のために悪用した観月はじめとの試合は不二の恐ろしさを読者に印象付けており、ここから不二はファンに「魔王」と呼ばれるようになりました。
不二が戦ってきたあらゆる試合の中でも初めてのシングルスがこれかという怖さ、そしてそんな怖い試合なのにトリプルカウンターを一切使っておらず底を見せていないのです。

そしてそれが同時に青学の天才である越前リョーマ・手塚国光との大きな違いにもなっており、越前や手塚の中にはこの「スリルを楽しむ」という感覚はあまりありません。
強いて言えば越前が不二に近い感覚を持っていますが、越前のスタンスが「テニスを楽しむ」という感覚の延長線上にあり、「相手の強さを引き出しその上を行く」ことが越前リョーマのスタンスです。
それに対して不二周助は逆で「相手の強さを引き出して罠に嵌め仕留める」というハンターの感覚であり、これが不二の奥底に隠されている鋭利な刃=カウンター・風の攻撃技の中身ではないでしょうか。
だから不二周助と戦う相手は多かれ少なかれ彼の奥底に眠るハンターの本性を見た時普段とのギャップに畏怖するのですが、これには1つ大きな前提条件があります。

それは「獲物が自分の想定以上の動きをすること」であり、不二が真に楽しいのは格下相手に戦っている時よりも同格ないし格上の相手と戦っている時です。
20年ぶりに行われた越前リョーマVS不二周助の再戦ではっきりしたことは越前も不二も「相手が強ければ強いほど真価を発揮する」ところにありますが、微妙に意味合いが違います。
越前リョーマが土壇場で発揮する底力は父親のサムライ南次郎との日々の打ち合い、また多くの対戦相手との経験値の中で磨かれてきたものであり、真田が指摘していたように「テニスのトッププロの芸当」です。
それに対して不二は猟師の本能として「既存の罠や武器じゃ通用しないなら、こんな新しい罠・武器を用意すればいい」という感覚で無数の手札をストックしているのではないでしょうか。

不二が手塚や越前に比べて強さが一見して数値化・可視化しづらいのもこの辺りにあって、どんなにカウンターや風の攻撃技を封じ込めてもまた次の札を切ってくるからです。
白石が「完成した手塚の方がある程度戦い方は読める。せやけどこの不二周助という男、何を仕掛けてくるのか強さの底が全く見えへんわ」と言っていました。
そして同じような思いを越前リョーマもしたわけであり、ある種白石も越前も不二に勝った気がしないというのはこの辺りの「手札の見えなさ」にあったのではないでしょうか。
どちらもスコアの上では勝っているにもかかわらず嬉しそうな顔をしていないのは不二の「本気」は引き出したけれど「倒した」という感覚は得られないのでしょう。

不二の戦い方を狩猟に例えると、相手の打球を利用するカウンターは「罠」のようなものであり、新テニで打ち出した風の攻撃技は銃や弓矢などの武器であるといえます。
そして不二が風を操りながら戦うのも猟師の戦い方のそれであるといえ、猟師は獲物を仕留めるために地の利を活用しながら戦いますが、不二の戦い方もまさにそれです。
しかし風は、自然は決して常々猟師に味方してくれる万能の神様ではないため、その風が時として不二に反旗を翻すこともまたあるのではないでしょうか。
不二の言う「大切なものは目に見えない」も南次郎の言う「目に見える側に囚われるな。心の本質を見抜け」とは似て非なるものだと思われます。

その感覚は確かに浮世離れしており常人には持ち得ないものですから、天衣無縫狩りを自称していた赤也や野生児の遠山や猛獣のオーラを持った橘よりもある意味じゃ不二の方が野性味が強いかもしれません。
ただ、不二はそれが長いこと自分の奥底に眠っていたことを自覚できずに、越前や手塚など真っ当な感覚でテニスを楽しみテニスの世界で強さを目指す人間とは違っていたことに苦しんだのではないでしょうか。
そしてそれ故に自分が持っていた才能を奥底から信じきることができず、かといって手放すにはあまりにも惜しいものだからずっと苦悩していたのだといえます。
なんかこう考えると越前や遠山ら負け組が経験したスポーツマン狩りの鷲との対決こそ是非不二にやって欲しかったです、カウンターや風の攻撃技で鷲を撃退する不二は見ものです。

こう考えると、不二は獲物狩りの快楽や達成感を満たす手段としてテニスを選んでいる感じであり、自分の心の真ん中に「テニス」ではなく「スリル」があることが越前・手塚とは大きく違っています。
思えば白石に負けた時も越前に負けた時も、不二はどちらも打球がアウトして負けていますが、これは「スリル」を楽しむことをモットーとする不二の敗北なのです、風の流れを読み違えたのですから。
不二に必要なのはそのような風=自然や無数の手数に頼らずとも基礎力を底上げして真っ当な実力(才能ではない)で相手に勝つことであり、それが越前・白石と紙一重の差を分けたのではないでしょうか。
黒部コーチが言っていた「コート上の美学」とは土壇場で自分の才能に依存して戦ってしまうことであり、それが封じられた時に実力で巻き返す底力がないのが今の不二の致命的欠陥です。

だからじゃあ不二はこれからどうすればいいのかというと、才能ばかりに依存せず強敵との経験をもっと積んで底力を磨き上げて実力で相手に勝てるようにすることではないでしょうか。
それができるようになって初めて越前リョーマや手塚国光がいる高みへと上り詰め真の強者としての仲間入りを果たせる気がしてならず、その意味でもバンビエーリとは戦って欲しいところです。
バンビエーリはアマデウスが認識するほど真っ当にテニスの実力が強いと思うので、不二にとってはいい意味で超えるべき壁を突きつけてくれる相手だと思います。

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