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『ドラゴンボール』のピークがナメック星編(フリーザ編)までだと思う理由についてその2〜絵の運動が完全に物語を超えていくサイヤ人編とナメック星編〜

前回の記事ではナメック星編までの『ドラゴンボール』が持っている通底した魅力について語ってみたが、そのポイントについて要約すると以下の通りである。

  • そもそも『ドラゴンボール』とは「球の奪い合いによる上昇志向」を根幹として展開される話である

  • 初期の頃は『Dr.スランプ』に顕著だったポップでアバンギャルドな絵柄と省略の技法が特徴的である

  • ピッコロ大魔王編からは「死ぬこと」と隣接する「怒ること」という主題が導入される

  • 修行シーンはあくまでも「足りないもの」を補うための手段であり目的ではない

こうした基礎的な『ドラゴンボール』のコマや絵の運動が持つ魅力について語ってみたが、今回はそこから更に具体的に踏み込んだ応用の話に入っていく。
具体的には「衣装と髪の変化に見る鳥山先生の過激な遊び」「戦闘力の数値化はブラフであり本質ではない」「二重の掟破りが描かれたサイヤ人編」「物語に従属しないナメック星編のベジータ」となる。
一番の肝として語られるナメック星編でのクライマックス、孫悟空VSフリーザに関しては本腰を入れて語るため次回に繰り越すとして、今回はこの4項目を題材に論を展開していこう。
前回が鳥山明先生が持つ漫画作家としての全盛期の凄さを中心に解説してきたが、今回はいよいよ「作品論」としての『ドラゴンボール』に踏み込んでいく

なお、前回同様お断りしておくと、あくまでも題材として扱うのは鳥山明先生の原作漫画の初期〜ナメック星編までのみとする。
それをアニメ化した無印及び「Z」や、そのスピンオフとして作られている大量の劇場版ならびに原作漫画の人造人間編〜魔人ブウ編以降に関するものは「後付け」として一切考慮しない
以前に書いた記事とは評価軸の全く違うものとなるであろうことも考えが変化した結果としてここに記しておくので、「以前に書いたことと矛盾しているじゃないか」という指摘には対応しない。

⑴衣装と髪の変化に見る鳥山先生の過激な遊び


まずこれは無印からナメック星編まで通底している「球の奪い合いによる上昇志向」と並ぶ面白さの特徴だが、「衣装と髪の変化」もまた『ドラゴンボール』を特徴付ける要素の1つだ。
これはそれこそ人造人間編以降の後期の話や「GT」「超」などの後付け作品ではあまり見られなくなった傾向であり、鳥山明はとにかくキャラを着替えさせたり髪の色を変化させたりして遊ぶ過激な作家である。
やはり代表的なのは初期のランチが典型だが、彼女はくしゃみをすると普段のおっとりした人格とは別の金髪オラオラの不良ランチに切り替わるという過激な遊びを物語とは関係ない要素として入れていた。
実はこの時既に「金髪になる=不良になる」ことが次回に述べる超サイヤ人への布石にもなっているのだが、これは決してランチだけに特有のものではないく、亀仙人など他のキャラにもこの遊びが使われている。

亀仙人が2回目の天下一武道会まで使っていた衣装とカツラを変えることで別人格としていたジャッキー・チュンもまたこのようなコスチュームプレイで助平な性格とは違う遊びとして使われていた
読者はこれが亀仙人であることは分かり切っているので、それに気づいていない悟空たちの滑稽さも醸し出されているのだが、実はこのような髪型と衣装の変化は他のキャラクターでも用いられている。

例えばブルマと彼氏のヤムチャはまるで着せ替え人形のごとく場面や状況に応じて服も髪型もまるで異なっているのだが、この遊びの過激さを指摘するファンはさほどいない。
だが、ブルマはどれだけ髪の色や衣装が変わっても誰もが身振り手振りからブルマだとわかるが、ヤムチャの場合最初に天下一武道会に出場した時は髪の短さと衣装の変化から狼牙風風拳を出さないとわからなかった

この点でいえば髪型も衣装もほとんど変わらないのが孫悟空・ベジータ・ピッコロの3人であり、例えば孫悟空はレッドリボン軍と戦う時に冬服を着たり最初の修行シーンでの衣装以外は殆ど山吹色の胴着と蟹髪である。
ベジータもまたフリーザ軍が支給したサイヤ人を象徴する戦闘服に身を包み、逆立った髪の毛(通称M字ハゲ)が特徴的で、これもまた現在に至るまで殆ど変わらないトレードマークであろう。
サイヤ人編の時の有名な孫悟空とベジータを象徴するカットであるが、2人のキャラクターはその関係性も含めてやはりここで既に完成していることがこのカットからもわかる。
その2人に戦闘力では後塵を拝するピッコロだが、彼も初期から紫色の胴着と白いマント・バンダナというトレードマークが殆ど変化することはないことが挙げられるであろう。

この点において、実はナメック星編まで衣装も髪型も定まっておらず個性がイマイチ弱いのが孫悟飯であり、彼は名前から衣装から髪型から全てが既存のキャラの借り物でしかない。

初登場はまさに祖父の孫悟飯を想起させるチャイナ服で登場したにも関わらず、サイヤ人編でいきなりブチ切れ、その後は山吹色から紫色の胴着、更にはフリーザ軍の戦闘服に身を包んでいる。
髪型も最初は悟空っぽかったのにサイヤ人編ではヤムチャばりのロン毛になり、更にサイヤ人編ではおかっぱ頭とまるでビジュアルがコロコロ変わるので、悟空たちのような一貫性がない
ブルマもヤムチャも孫悟飯も後期に向かってどんどん没個性化していくが、それはやはりこの「衣装と髪の変化」という絵の運動が大きく関連していると見ていいだろう。

ちなみにこれの応用編が「生身の人間の体を借りて変化を示す」ことをやってのけたシェンだが、これは一回きり使える例外中の例外ではなかろうか。

⑵戦闘力の数値化はブラフであり本質ではない


ここからはサイヤ人編に入っていくのだが、サイヤ人編〜ナメック星編でファンたちから議論されているのが「戦闘力の数値化」であり、スカウターが登場する。
良くも悪くもファンの語り草となるポイントの1つだが、これに関しては前回の記事で述べた修行同様にあくまで「手段」であって「本質」ではなく、単なるブラフでしかない
これに関しては何度か交流を持たせていただいている坂本晶氏が明確にその魅力に関して説明してくれている。

「強さのインフレ」「強さの数値化」を導入したマンガ家は多数いるが、どれだけヒットしたかに関わらず、インフレを面白さにするのに成功したのは鳥山だけである。
なぜなら数字は人を冷静にする。冷静な思考の迎える終幕は予定調和である。計算しない鳥山だけが、数字で読者を熱狂させることができた

実際、「リングにかけろ」の世界大会編のドイツ戦でデータボクシングを導入した車田正美はあくまでも「本当の強さは数字で測れるものではない」として乗り越えさせていた。
「戦闘力の数値化」を真正面から扱ったゆでたまご先生もいわゆる「ゆで理論」なるものを使ってこねくり回していたが、やはりこれも後半に向かって矛盾が生じて形骸化していく。
数値化することそのものが悪いわけではないが、鳥山明は実際にサイヤ人編の途中からベジータに「こんなものは当てにならない」とスカウターを捨てさせている。
ナメック星編における「私の戦闘力は53万です」もそれ自体がフリーザの恐ろしさを裏付けるものではなく、あくまでフリーザの強さは絵の運動によって示されるのだ。

例えば、サイバイマン戦を終えた後のナッパ戦では、数値としてはナッパが4000と示されるが、実際の強さはあくまでも絵によって示される、例えば最初に気合いを入れるシーンだ。

ナッパの周りに気がスパークしているが、この演出は後期の超サイヤ人2・3を除いてここでしか見られない演出であり、ここでまずベジータ戦の前座として描かれたナッパの恐ろしさが示される。
物凄く尊大で生意気な態度のナッパだが、その実力は推して知るべしといったところであり、まずは天津飯の腕をあっさり切断してしまうところで示され、次に餃子の抱きつき自爆「さよなら天さん」が効かない。

そしてピッコロの死に憤慨した孫悟飯がラディッツ戦以来見せる瞬間的に上げた技「魔閃光」を披露するわけだが、この技ですらもナッパには効かない、台詞では2800と示されているがこれも当然ブラフである
この後に悟空がナッパを圧倒し、使い物にならなくなったナッパをベジータが瞬殺した後で悟空VSベジータとなるわけだが、ここでもベジータの強さは決して数字ではなく絵の運動として示されているのだ。

2倍界王拳を物ともせずに悟空を一蹴し、更に気で周囲を圧して悟空を追い詰めていくのだが、これを悟空が上回るには2倍界王拳を超える3倍界王拳を使うしかない。
はち切れんばかりの膨れ上がった筋肉と凄まじいスピードでようやく悟空はベジータの戦闘力を瞬間的に圧倒するのだが、ここの一連の絵の運動で悟空の強さがわかるのだ。

これはナメック星編に入っても同じことであり、あくまでも『ドラゴンボール』における「強さのインフレ」とは「絵の運動」として示されるものであり「数値化」によるものではない
そもそも鳥山明は本来ギャグ漫画の作家でありバトル漫画専門の作家ではないのだから、車田正美やゆでたまご先生ら他のジャンプ漫画作家と違ってバトルそのものは得意ではないはずだ。
だがそれでも『ドラゴンボール』の戦闘シーンがなぜ世界レベルで高く評価されているのかというと、この圧倒的な画力が持つ絵の運動によって読者の誰もが驚きとともに納得できる強さを示しているのである。
その伝でいえば、ナメック星編のクライマックスにして実質の『ドラゴンボール』の終焉ともなった超サイヤ人とフリーザ最終形態は正にその「絵の運動」としての極致ではなかろうか。

少なくとも視覚的な説得力を数値化して抽象化できるような概念ではなく、肯定的であろうが否定的であろうが戦闘力の数値化をもって『ドラゴンボール』の良し悪しを語るのは厳に慎まねばなるまい。

⑶二重の掟破りが描かれたサイヤ人編の戦闘シーン


⑵とも多少なり関連するところがあるが、実はサイヤ人編において二重の掟破りが描かれていることが視覚的に示されているのだが、みなさんはお気付きであろうか?
1つはラディッツ戦でもう1つがベジータ戦なのだが、まずナッパ戦においては「みんなで力を合わせれば勝てる」というヒーローものの王道が通用しないところであろう。
それこそこれはスーパー戦隊シリーズあたりと比較すれば一目瞭然だが、例えば普通のチームヒーローなら多少なり力が弱くても5人で力を合わせれば勝てる仕組みがある。
それがゴレンジャーストーム・ハリケーンのような合体技なのだが、『ドラゴンボール』においてはまず視覚的に相手を上回る何かを持っていない限り一対一で倒せない敵は集団でかかっても倒せない

例えばピッコロ大魔王編でも、大体の敵は超聖水で強化された悟空が倒しており、のちに悟空への復讐を目的として生まれたマジュニアもやはり一対一で孫悟空にしか倒せない仕組みとなっている。
その意味ではナッパ戦で天津飯・餃子・ピッコロと次々に仲間が殺されていくことは別段不思議なことではないのだが、その前のラディッツ戦はまず最初にその文法に対する破壊が起きているのだ。
まずは孫悟飯がいきなりブチギレて1000を超える戦闘力によってラディッツを圧倒し、最終的に魔貫光殺砲によって悟空が自己犠牲を例外的に働いて倒している。
実はラディッツ戦自体がその倒し方も、サイヤ人というそれまでにない存在の導入としても実は後にも先にもほとんどない倒し方だった。

そしてベジータ編であるが、これもまたラディッツ戦と同じイレギュラーが発生し、結局のところ泥沼の総力戦に持ち込むことによって何とか倒す寸前まで追い詰めている。
これに関してもやはり後にも先にも例がない戦いであり、まず一対一の戦闘において悟空はベジータに完敗を喫しており、最終的に大猿となったベジータに全身を複雑骨折させられた
完全に満身創痍となった悟空はこれ以上戦えないために本来なら戦力外であったはずの悟飯・クリリン・ヤジロベーを総動員することになるが、物語の流れから行くとこれは本来おかしい
必死に頑張っても倒せず悟空が来てようやく圧倒できたナッパを悟飯たちが束になってかかっても倒せなかったのに、なぜベジータ戦ではそれができたのか?

1つにはベジータがパワーボールと星の酸素を混ぜて作った疑似的な月の存在によって孫悟飯がまさかの大猿化をしたことが挙げられるであろう。
悟飯が大猿化した時にベジータはすでにヤジロベーによって尻尾を切断され弱体化していたので、更にそこに悟飯が大猿化したとあれば納得だ。
しかしベジータは咄嗟にクリリンの気円斬を見様見真似でコピーして同じように大猿悟飯の尻尾を切断したが、それでもやはり勝てない。
そこでダメ押しとして出したのが悟空がクリリンに託した元気玉だが、これも不完全な威力でしかないためにベジータの息の根を止めるには至っていないのだ。

これを上記の戦闘力の数値化で考えたら、どう見てもベジータが雑魚兵でしかない悟飯たちにやられるのはナッパ戦の時との矛盾が生じておかしいことになる。
しかし鳥山明はその物語上の論理的矛盾を絵の運動として画力によってねじ伏せており、本来ならばここでベジータがズタボロになってしまうのは物語的には発生し得ないイレギュラーだろう。
もっともこれは連載の引き伸ばしによってメタ的にベジータを鳥山明が殺しづらくなったことが挙げられるが、そうではなく絵の運動としてベジータがあそこで殺される流れにはならなかったのである。
あの時クリリンが一思いに殺しても問題はなかったのだが、この全員がボロボロになりながらの総力戦でベジータを悟空たちが殺さなかったのは未だに消化し得ない驚きとして読者の感性を揺るがすものだ。

⑷物語に従属しないナメック星編のベジータ


ようやくナメック星編の話になるが、物語的にはもちろんのこと、何よりもサスペンスとしてよくできたナメック星編の序盤を彩るのは物語に都合のいいコマとならないベジータである。
ここでのベジータは本当によく動きよく殺し、物語を良くも悪くもしっちゃかめっちゃかに掻き乱す存在として描かれており、その色気(存在感)は悟空以上ではないだろうか。
ナメック星編のベジータはサイヤ人編では押さえ気味だったサイヤ人の闘争本能を解放し、前回述べた「球の奪い合いによる上昇志向」も相まって何とも言えない爽快感と面白さを生み出している。
ナメック星に到着していきなりやったことが同じくらいの戦闘力を持っていた同僚のキュイをあっさり雑魚扱いして「汚い花火」にしてしまう。

そして、次にキュイやドドリアを始末していくわけだが、こういうピカレスクロマンならではの爽快感はピッコロ大魔王の生まれ変わりであるマジュニアにはなかったものだ。

読者はここで第三勢力として活躍するベジータに対して困惑や驚きと共に謎の爽快感・安心感のようなものを得るのだが、だからと言って鳥山明は決してベジータに感情移入させないようにする。

そう、話し合いが通用せずドラゴンボールを渡さないと判断したら「じゃあ死ね!」という言葉と共に村に住む無辜の者たちを容赦無く虐殺する、このシーンを悟飯が見ていなかったのは不幸中の幸いだろう。
こういう話の場合、いわゆる「敵の敵は味方」というありがちなレトリックに収めがちであり、例えば車田漫画はしょっちゅうそういう展開をやりたがるのだが、鳥山先生は決してそれをやらない。

だから、徹底してナメック星編のベジータは地球人の味方になることなど決してない、あくまでも「呉越同舟」として境界線を引き、単独だからできる暗躍を次々にやってのけるのである。
もちろんだからと言って終始無双するのではなく、強敵たるギニュー特戦隊が出現してリクームと戦う時には大苦戦を演じ、今度は自分が酷い目に遭う側も演じていた。

そして悟空が駆けつけた後、またもや瀕死からの復活によって基礎戦闘力でギニュー特戦隊を上回るのだが、かといって安易な共闘などするわけがなく、すぐさま悟空を裏切る
この時のベジータは悟空の強さに驚愕こそすれ、決してコンプレックスがあったわけではなく、彼の中にあるのはいかにしフリーザに対する下克上を果たすかしかなかった。

ベジータが悪役でありながらも読者が思わず見入ってしまう理由は決して物語やキャラの心理描写ではなく、あくまで視覚的な絵の運動でその圧倒的な強さが描かれているからである。
むしろ物語の枷にならない存在として知略を張り巡らせながら縦横無尽に活躍するからこそ、今のベジータにはない自由闊達さ・悪としての華というものが生き生きと演じられていよう。
むしろこの段階に入ると悟空が物語を動かしていくというよりも、あくまでも真打登場という形で幾分遅れて登場し、本当にここぞという時にしか戦わなくる。
つまり悟空はこの辺りから徐々に物語のコマとして動きが物語に従属していくことになるのだが、ナメック星編では悟空が好き勝手できない分ベジータに好き勝手させているのだ。

悟飯・クリリンたち地球人組が結局は物語の中で決められた役割に沿った個性の発揮しかできなくなり、また悟空もフィニッシャーとしての役割しかできなくなっている。
だが、ここでベジータを劇薬として混入させることによって物語を超えた想定外の躍動感と面白さを衝撃として生み出すに至り、それが生々しく露呈しているのがナメック星編独特の魅力だ。
このベジータを抜きにしてナメック星編の魅力は語れないのだが、それはいわゆる人造人間編以降の後期のようないわゆる「人間味」とは全く違う絵の運動としての面白さである。

次回はいよいよナメック星編の佳境であるフリーザ戦の魅力について語ろう。

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