勉強と教養は必ずしも比例しないけど、それでもそれなりに相関があるということに関しての自分なりの考察

勉強に関して、一番本質を得ているのは個人的にはこれだと思う。

太宰治「正義と微笑」より

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記《あんき》している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!


勉強の本質はこれ。残ったものが教養。教養は教えを養うと書く。最後に残っている一掴みの砂金が自分に養われたもの。


断言しておくと教養があった方が人生は楽しい。
何か一つの事象を観察するにしても、見える側面の多さ、裏に連なる関連要素の深さ、その構造の種類が全然違う。
それがつながり始めると、指数関数的な違いが生まれてくる。

ところで、時々目にすることのある「大学なんて出ても役に立たない。」という言説はこれとは反する。まあ確かに、高校の延長で学問を捉える人にはそうなのかもしれない。

高校までみたいに、与えられた問題を期待される方策で解くみたいなものじゃないから。

でもまあそれに気が付かずに大学生活を終えていく人も大勢いる。

高校を卒業してすぐ社会に出る。昔はそれでも大卒よりも良かったのかもしれない。別に今の時代でもそれが劣っているとは全く思っていない。

でも昔との違いとしてこんなところがあるのかなーと。
子供みたいな状態で社会に出ても叱ってくれる人がいた、厳しくも愛のある教育をしてくれる風土があった。

今やったらパワハラだなんだ言われる。おじさんたちは超やりづらそう。窮屈に若手に接している。

言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ポイズン。

人格を否定するようなハラスメント、ただ厳しいだけみたいなのは確かにいけない。でも教育とパワハラを全く同じようなものかのように扱うのは社会として大きな損失。

でもこれが不可逆な社会の流れなのだとしたら、ゴミとも宝ともわからないものをたくさん掴んで、自分なりの砂金を残すしかない。

真にカルチベートされた人間になろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?