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ドライな赤ちゃん『おかあさんといっしょ』

やあ、僕だよ。
やってみなければ分からないことは多い。今の僕にとってそれは育児であり、想像していたイメージと何もかもがほぼ的外れなのだけれど、これは僕が摂取してきた情報が偏っているせいなのかな。

今回観たものは、僕が最近毎日欠かさず観ているテレビ番組。前に「NHKは神」みたいな育児マンガを読んだことがあって、「子どもの教育に良いのかしら」くらいにしか思っていなかったのだけれど、本当に神なんだよ。
あと、息子氏の反応から「多様性」についても書いていくね。

さあ、始めるよ。
今日も楽しんでくれると嬉しいな。

本作あらすじと感想

『おかあさんといっしょ』(1959~,日本)
言わずと知れた国民的子ども番組。息子氏(0歳児)向けではないものの、『いないいないばぁ』や『シナぷしゅ』より反応する楽曲が多数見受けられる。また、大人側が参加しやすい振り付けであり、子どもと遊ぶのに飽きてきても「からだ☆ダンダン」が始まるとテンションが上がる。

耳や体に心地よい、中毒性のあるコンテンツの数々は毎日観ていても飽きない。昔、めちゃイケの話をしようとした時、クラスメイトから「NHKしか観ちゃダメって言われてるんだ」って話が続かなかったことがあって、心底その子に同情したのだけれど、今なら分かる。きっとその親自身がNHKを観たかったのだ。
そんなことを想像するほど、よく出来ている。ワクワクドキドキで涙が出るほど笑うとかそういうのがない代わりに、ずっと観ていられる番組内容だ。
僕は「きんらきらぽん」のディズニーみがとても好きで、皿洗い中や風呂の時によく歌っている。歌詞の内容に多様性が込められていたり、振り付けが手話だったりするわけだけど、それはさておきとても気持ちいい曲である。

教育番組を続けて観る

平日朝、7:45起床から『おかあさんといっしょ』、『いないいないばぁ』、『にほんごであそぼ』あるいは『えいごであそぼ with Orton』辺りをともに視聴し、『みんなのうた』に差しかかるところで息子氏がメリーを所望するので、時間を持て余した僕は仕方なく、ゴミ捨てだの皿洗いだのやりたくないものに手をつける(コテンラジオタイムでもある。僕はあの三人がいないと皿洗いできない体になっている)。

メリーは15分で自動停止するのでその度に息子氏の様子を見つつ、たまに別のおもちゃや絵本を与えつつ、諸々終わるといつの間にか『スクる!』になっていて、小学生たちの苦手な教科について観ながら、「僕も夫も逆上がりが苦手だから、ばんちゃんも逆上がりできないんだろうなぁ」と小学生の息子氏を想像する。この間4ヶ月健診でも、うつ伏せからの首上げは芳しくなく、それにしてもずっとおしゃべりをしていた。親が親なら子も子であり、おしゃべりからはおしゃべりが生まれるのである。逆上がりについてはわからないが。

そうしていると息子氏はグズグズしだして、時計を見ると10時前である。きっかりこの時間に朝寝を所望する息子氏に、僕もご相伴にあずかることが多い。
1時間経たずに起きられればいいが、こんこんと眠り、14時頃になってしまうこともある。僕は長時間寝て夢を見るのが趣味なのだけれど、どうやら息子氏も深く眠れるタイプらしい。

手話に反応する息子氏

大体その辺りにEテレをつけるとイタリア語やフランス語、ドイツ語なんかをやっていて、息子氏は熱心に観たり観なかったりしている。
僕にとってそれらの言語は「外国語」なのだけれど、息子氏にとっては日本語だって大差ないのだ。試しにichの発音をしたら、にやりと笑った。面白いので息子氏との遊びに語学学習を加えることとする。

特に息子氏が気に入っている言語は手話である。三宅健さんがやっている『みんなの手話』が始まると僕とふたりでテレビにかぶりつく。
「きんらきらぽん」の振り付けに似ているし、大げさな表情が彼に刺さっている気がする。何より僕も真似してて面白い。

手話かっけー!の思い出

手話は聞こえに頼らない言語であり、文字よりライブ感と伝わる人口の多さで優れている。僕は耳が聞こえない人の気持ちは分からないし、正直聴覚障がいに関する福祉問題に興味はそこまでないけれど、手話は好きだ。

出身の高校は福祉科があって、何故かそこの科はギャルが多かった。同じ部活に福祉科の同期がいて、その子は典型的でステレオタイプなギャルというか、ダサさをバカにすることを厭わないヤンキー系のギャルだった。
そのギャルと教室の前で話していたら、いきなり遠くの渡り廊下にいるクラスメイトに手話で会話しだすことがあった。僕は最初見た時大変驚いた。

「何、今の。なんて言ったの」
「今のは次の授業の連絡。教科書いるってー」

彼女は遅刻魔だったし、お世辞にも真面目で優しいというわけではなかったが、手話はできた。僕もその時「手話できるのかっけー!」ってなっただけだったと思う。

例えば今の僕が高校生の手話を見たらどう思うか

「ああ、良いものだな」と思ってしまう、、、。なんというか美しくて尊いものを見ているような、この時期にやっている感動バラエティに涙してしまう感覚というか。
つまり、特別な感情を抱く。奉仕の精神をそこに見てしまう。僕はこういう自分があまり好きではない。いわゆる感動ポルノの代表ともいえる光景にまんまと涙を流す自分。こんな自分に、普段は無視できている自らの偏見を、眼前につきつけられる気がして嫌な気持ちになる。

手話が出来るか否かは奉仕の精神とまったく関係がない。僕の偏見は、単に目の前の人と話そうと思って、あるいは授業でやっただけで便利だから高校生が手話を使っているなどの可能性を無視している。
昔の僕は、「手話かっけー」だけでその様子を見れたはずだった。いや、すでにあの「かっけー」にも偏見はあった。ギャルが手話なんかできるわけないという偏見だ。
手話が出来るか否かはギャルであることとまったく関係がない。

赤ちゃんはそれが楽しいだけ

手話も日本語も英語もドイツ語も、彼にとっては全部一緒なのだ。
生まれた時から空腹を満たしたり身の回りの清潔を保ったりする存在が出す鳴き声、あるいは仕草が「言語」だという事実だけが彼の中にある。

それらの言語がそれぞれ持つイメージや、学習目的や話者の背景などはまったく関係がない。単に音や動きが面白いから興味があるだけだ。
この赤ちゃんのドライさは、彼らが偏見がないということに他ならないし、しかし「共感」と程遠いドライさである。
このドライさを僕はクールだと思っている。僕自身が以前持ち、しかし失ったものだからだろう。

そして、いずれ彼も失うのだ。個人が個人である限り、偏見をなくすことは出来ない。彼が経験したことを誰も経験出来ない。僕も、夫も。だから彼の中にも彼だけの偏見が出来ていく。ドライさを失い、偏見を基にして想像して「共感」する。

躍起になって分かろうとしても、それは勝手な想像なわけで

「共感」は絶対絶対、必要だ。が、「共感」が手放しに良いものとは限らない。
僕は「共感」に自己中心的な側面があると思う。「もしも自分があの人と同じ立場ならこういうことを感じるだろう」と想像し、何がしかの感情を持つ。この「だろう」は本人以外持ちえないその時の感覚を、ある程度無視している。何故なら「共感」は必ず他者から行われるからだ。他者は本人にはなり得ない、ゆえに「共感」はどこまでいっても偽物で、僕らが勝手に想像したそうであってほしいもの、つまり偏見にしか過ぎない。

しかし「共感」がすべて偽物だとも言えなくて、だからこそその本物と同じ部分が自己中心的側面を覆い隠してしまう。他者を勝手に想像し、自分のイメージに当てはめる傲慢さを。
僕は「共感」する自分が嫌いなのではなく、そういった傲慢さを忘れてしまう僕が嫌いなのだ。感動ポルノに涙を流してしまう時と同じ、自分の偏見をないものとして扱う僕自身に嫌な気持ちがする。

どうせ自分以外のことなんて分からない

想像するだけ無駄だとは言わないけれど、「共感」しようとすればするだけ本物から離れる気がしている。例えば僕はバイセクシャルだけれど、同性のみ異性のみが恋愛対象だと頑なに主張する人の気持ちは、本当の意味で分からない。
素敵な人は男女関わらずいるのに、何でそこを制限するのだろうと思っている。この人たちに「共感」しようと、「生理的に無理ってやつかな、僕が一目惚れを気持ち悪いと思うのと一緒かな」とか考えたとして、その気持ち悪さはバイセクシャルじゃない人たちのそれと同じではない。むしろ、これこそ想像でしかないのだけれど、きっとズレている。
その人たちの目線でしか見えない気持ち悪さがあるはずなのだ。あるいは拒絶する理由は気持ち悪さですらないのかもしれない。

僕は僕以外の人間が分からない。僕ですら、僕のことをよく分かっていない。人間は大脳が発達した生きものであるがゆえに、いかなる環境にも対応するゆらぎ、「個人内多様性」があるというのは、前の記事で書いた通り。矛盾した行動や思考こそ、人間の生存戦略なのだ。

であれば、他人のことなんてもっと分かる、、、はずがない。分からないから、多様であるから、発展してきたのが人類なのではないのかな。まあそんなのを今更「多様性!多様性!」とありがたがるのも、ちょっとこう、座りが悪い気持ちがする。
多様性、言い換えれば他人と自分の違いに、無理やり「共感」しようとも拒絶しようともせず、なるべく赤ちゃんのドライさを装って捉えてみると色々便利になると思う、今日この頃である。

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