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【短歌一首】 家といふ寄る辺いずこぞ霊園のあまたの墓に蔓草深し

家といふ
寄る辺いずこぞ
霊園の
あまたの墓に
蔓草深し


短歌はレジリエンス。

ここのところ、久しぶりに行った墓参りのせいで脳の海馬が刺激されたのか、いろいろな感情や思いが溢れ出てきます。亡くなった家族・親族のことなどは、普段思い出してはいてもどこかで自動的にブレーキがかかっているのだと思います。それは、あまりそういう気持ちにまともに対峙しようとすると、どうしても悲しみや苦しみに支配されるリスクがあるので、本能的に、動物的に、自己防衛機能が働いているのでしょう。

公共の大きな霊園の中の小さな一画に墓があるのですが、幼い頃、子どもの競争心や対抗心ゆえか、自分の家の墓石や区画の大きさなどと、他の家のものと比較しては兄弟や親戚の子どもとおしゃべりをしていました。 この時、自分の家の墓石がとても地味で、墓所の区画にも囲いの塀もなく、なんかしょぼくね、と感じていました。 両隣や向かいの区画、あるいは離れた場所にある豪華な作りのお墓や、やたら斬新なお墓、門があり名刺入れがついているお墓などに、思い切り負けているじゃん、と思っていました。

7、8年ほど前、母がまだ生きていた時に、一度、母から「お墓にある土の地面から生えている雑草をムシるのが大変だから、石屋さんと相談してコンクリートで覆うのはどうか。」と相談されました。 その時に私は、「ウチの墓は土があるところがいいし、墓石も地味で落ち着いていて素朴でいい。やはり、お墓は自然と一体化していて欲しいから、土の草や石の苔なんかもかえって愛着が湧く。」などどほざいていました。

本当にそう思っていたのですが、その時は自分が墓を継ぐなんて全く思っていませんでした。今思うと、確かに草むしりは面倒くさいな、と感じます。
でも、やはり自然との一体感がある程度あった方がいいと思っています。

この20年ほど、墓参りにくるたびに感じるのは、今や誰も弔う縁者のいない所謂「無縁墓地」がどんどん増えていることです。 草ぼうぼうで蔓草が墓石に巻き付いたお墓や、立て看板に霊園からのメッセージで誰かお墓に来たら一報を入れてほしいと書かれてるお墓や、すでに撤去のための工事が入っているお墓や、全く更地となったお墓などが激増しています。

以前、ゴージャスだと思っていたお墓が人が入り込めないほど高く草が伸びていたり、コンクリートの割れ目から生えてきた雑草に支配されているお墓もよく見かけます。 今回久しぶりにきた自分の家の墓もかなり雑草に覆われていましたが、訪れる人がどんどん減ると、同じようにいずれは雑草に覆われてしまうだろうな、と思います。

日本独特の「家」という制度、家を軸としたお墓の区画、そして基本的に長男がお墓を継いで、他の兄弟姉妹は別のお墓に入るとか、女性が結婚したら夫の家の墓に入るとか、いずれもすでに限界に来ているのかもしれません。

母も亡くなる直前によく次のように愚痴をこぼしていました。「大家族の家の長男と結婚して、いろいろなことを家という大きな力に絡め取られてしまった。」「しかも、結婚相手(夫=私の父)がとっとと(35年以上前に)亡くなってしまって騙された。」とも。

また、「お墓のことは兄ちゃんによく頼んであるから。」とも言っていました。(まさか自分が亡くなった後、1年ちょっとでその兄ちゃんも逝ってしまうととも知らず。 この親不孝もん!)そして、私が「俺は長男ではないから、お墓は別に買わないといけないよね。」などと言うと、よくある話で頭では多分わかっているのに、「えっ、そうなの。それはすごく淋しい。」と言ったりしていました。これもよくあることですが、そもそも母だって自分の両親ともお墓が別なのに。

先祖代々の家という制度・枠組みとお墓を結びつけていくと、どうしてもお墓の承継や管理が限界にくるし、それを巡って、人間関係もとてもギスギスしたり、破綻したりすることもあるように思います。

今後、自分の家の墓守として、そのあたりのことを考え、具体的にどうするかを決めていきたいと思います。

猫間英介


【余 談】
私が実施しているキャリア面談や心理カウンセリングにおいても、家制度の束縛の悩み、親兄弟との関係、墓管理の役割・責任・費用負担に関する親族間のトラブルなども、よく相談の中で出てきます。多くの人が同じような悩みを抱えていると思います。若い人の場合もあるし、定年後の継続雇用の高齢者の場合もあります。身内の問題というのは、ある意味で仕事よりもさらに逃げ場がないのでとても辛いものがあります。





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