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【短編小説】来世はメレンゲ

レズビアンの弥生はずっと女子柔道部エース・夏生に恋をしているが、夏生は同じクラスの不良に惹かれている。16歳という年齢に、地方都市の冬に閉じ込められた三人の関係の行方。


「いつものガトーショコラ作ってあげたらいいじゃん」と、わたしは軽々しく言ってのけた。それを今になって後悔してる。でも、もう手遅れだ。

たきつけた手前、不安そうにしてた夏生 なつきをほったらかしにして男と遊んでていいわけもなく、わたしはケータイで時間を確認すると、起き上がって服を着始めた。もうすぐ、十五時に差し掛かろうとしている。

「もう行くの」

かすれた声が背中に投げかけられる。「うん」とも「ううん」とも聞こえるような、適当な返事をしてブラを着けた。シーツの上をゴソゴソ這い回る音。彼の皮膚に染みついた香水のラストノートがむわん、と立ち昇る。シトラスっぽかった香りが日向で温まって、青い汗と混ざり合い、なんだかよくわからない香りになっている。彼の、こういうところが残念で、でも、その残念さが田舎の高校生にはよく似合うと思う。一丁前に香水なんてつけていても、どうせ、国道沿いのイオンの化粧品売り場で買ったのだろうとネタが割れている悲しさ。

「今日うち、親いないから」とかいうチープな言葉でわたしたちは昼頃から落ち合った。コンビニで買ったカップラーメンを食べてから、暖房の効いた部屋でしたセックス。彼がわたしの口に突っ込んできた舌先はチリトマトの味がした。

「なあ、月曜日チョコくれよ」

わたしは答えず、セーターを着込むとショルダーバッグをひっつかんだ。

「なあ、弥生」
「下の名前で呼ぶなって言ったよね」
「つめてぇの」
「じゃあね」
「メールする」

無視して玄関に向かった。少しきしむ階段を下りていくと、今日の朝ごはんと、仏壇のお線香が混ざった「人んち」の匂いが沈澱していた。電気が消されたリビングやダイニングは少し不気味で、薄暗い物陰には、何かが潜んでいそうな気さえする。彼の母親の趣味だろうか──ちょっと端っこが黒ずんだ白いレースの玄関マットが何だか不潔に感じられて、つま先で飛び越えてコンバースを突っかけると、わたしは重いドアを押し開けた。

家の前には見渡す限りの田んぼが広がっていて、冬の寒さで凍りついたこげ茶の土の上に、ところどころ、枯果てた植物の残骸がこびりついている。いくつかの田んぼを挟んだ向こう側の畦道を、軽トラックがのんびりと土ぼこりをあげながら走っていく。黄土色に塗りつぶされた山の麓には、遠くの住宅街がジオラマのように光って見えた。家の前に停めていた自転車にまたがってペダルを漕ぎだす。さっきまで男の子の体の一部がひっきりなしに出入りしていた股は、ショーツの薄い布を挟んで、サドルに擦れてチクチクした。


夏生が、実はお菓子作りが好きってことは、学校では夏生とわたしだけの秘密だ。自分の見た目をものすごく気にしている夏生は、「かわいい」と世間的にみなされているものに手を伸ばすことを、人前では絶対にしようとしなかった。でも、夏生は、本当はかわいいものが大好きだ。願わくば、他の女の子みたいに、爪を伸ばして先をまぁるく整えて桜色のネイルを塗ったり、唇にはうるうるしたケイトのティントリップを塗ったり、かわいいバレッタで髪を飾ったり、ナイロンのつるっとしたピンクのブラとショーツをつけたりしたいと思ってる。でも、似合わないって知ってるから、彼女は少し節がごつっとした指の爪を短く切りそろえているし、唇にはメンソレータムを塗ってるし、下着はスポーツブラだ。

夏生の身長は180センチ以上あって、肩幅は広く、腰もがっしりしている。首も太い。おまけに女子柔道部で一番強くて、去年は県内の大会を勝ち上がってついにはインターハイに出場し、全国ベストエイトまで勝ち進んだ。プリーツスカートの制服を着ていないと百パーセント男に間違われる。「わたしなんかがスカート履いても、全然似合わないし」などと寂しそうに、切なそうに言いながら、特別な行事や式典の時以外、日常生活のほとんどをジャージで過ごしている。ふわふわした栗色の髪に、高い鼻、くっきりとした二重まぶたにはびっしりと濃いまつ毛が連なっていて、まばたきをすると頬骨のあたりに儚げな影が落ちる。上唇がツンとめくれ上がった唇はいつもバラ色に濡れていた。要するに、めちゃくちゃかわいいのだ、夏生は。わたしは高校の入学式で夏生を見た瞬間に恋に落ちた。たとえ、夏生が女子からふざけて「イケメン」扱いされていても、わたしが恋に落ちたのは夏生が女だったからだ。でも、同じ女だっていうだけでわたしはバッターボックスにすら立てない。

平凡な地方都市の、のどかで退屈な日常に、女の子が好きな女の子が紛れ込んでいることが知れ渡ったら、ご近所様一体に激震が走る。だから、この気持ちは墓場まで──もとい、卒業したら東京まで持っていく。ゲイタウンと名高い新宿二丁目で、男のセフレじゃなく女の恋人を見つけるのだ。そこでわたしの恋は葬られる。そして、夏生にしてあげたかったことを全部彼女にしてあげる。かわいいと思った時にかわいいと言い、好きだと思った時に好きだと言う。二人で手をつないで、恵比寿や代官山の街を歩き、似合うと思った服を惜しげもなく買い与え、喉が渇いたらスターバックスでフラペチーノを頼み、ストローをくわえる彼女の唇を飽きることなく眺める。それから自分の家に連れて帰って、顔じゅうに優しいキスを降らせて、どんなにあんたが大事か、わたしが毎日、どんだけあんたのことを考えて何も手につかなくなっちゃうか、ひとつひとつ、丁寧に語って聞かせてあげる。それで、死んでも離さない。ダメだ、想像するだけでも、切なくて涙が出そう。

だからとにかく、それまでは、夏生を見て股が濡れても男のセフレで我慢しなきゃいけない。


自転車を漕いで国道を越え、十分ほど市街地を走り夏生のマンションにたどり着いた。エレベーターで五階に上がり、「林」と表札の出ている部屋のドアチャイムを鳴らすと、インターフォンを使わない「はあい」という夏生の声が扉の向こう側から漏れ聞こえ、さらに玄関まで駆け寄ってくるパタパタという無防備な足音まで届いてきた。それだけでわたしの心拍数は上がってしまう。だって、誰だかしっかり確認もせずに、そこにわたしがいるって、信じきって扉を開けようとしてくれているんだもん。それって、とんでもなくロマンチックなことだ。

迎えてくれた夏生は、たぶん、年の離れたお兄ちゃんのお下がりと思しき、蛍光オレンジの糸で大学名が刺繍されたネイビーのジャージを着ていた。それから、前髪をピンクのラメのヘアクリップで留めている。

「弥生、マジで来てくれてありがとう」

わたしよりも頭ひとつ分以上背が高いのに、上目遣いになるみたいに肩を小さくして申し訳なさそうに喋る夏生は、いじらしくて、ほんとうに健気で、変な格好のおかげで百年の恋も冷めてくれたら嬉しいのに、そんな様子はちっとも見られず、やっぱりわたしは絶望するしかなかった。

「いいよ、どうせヒマだったし。そのかわり、いっぱい味見さしてね」
「うん、張り切って作るから」

リビングルームには、休日を満喫するおじさんが、クリアアサヒを片手にくつろいでいる。テレビでは「なんでも鑑定団」の再放送をやっていて、島田紳助が大声でなにかをまくし立てていた。おじゃまします、と声をかけると、おじさんはこちらを振り返って、少しおどろいた顔をした。この家でおじさんに会うのは初めてだった。目鼻立ちがくっきりしていて、優しげな目元をしている。夏生の顔立ちは、このお父さんから譲り受けたものなんだろうと察せられた。「学校の友達。弥生ちゃん」夏生が少しぶっきらぼうに説明すると、おじさんはわたしから一切目をそらさず、「おお」と何かに感動したみたいな声を上げた。「そうか、いらっしゃい」。

彼の目線で自分の何が吟味されているのかははっきり感じ取っていたけど、男の人に「そういう目」で見られるのは慣れっこになっていたから受け流した。わたしの見た目は、女よりも男を落ち着かなくさせることの方が多い。そして、落ち着きをなくす男を見て、女たちも落ち着きをなくす。結果的にみんなが落ち着きをなくす。それなのに、一番落ち着きをなくしてほしい人は、わたしの目の前で平然とお兄ちゃんのお下がりのジャージを着ている。

「弥生ちゃん、いらっしゃい!」

キッチンから満面の笑みで飛び出してきたお母さんは、すでにエプロンを装着済みで、しかもケーキ作りに必要なものをすべてキッチンの作業台の上に揃えていた。ケーキをかたどるステンレスの丸型に、電動ミキサー、ボウル、泡だて器、ゴム製のへら。電子オーブンも温められている。

「夏生がバレンタインのお菓子つくるのなんて初めてだから、びっくりしちゃって。なんだかお母さんはりきっちゃった」
「どっか行っててって言ったじゃん。わたしと弥生でやるから」
「そんなあ、仲間外れにしないでよ」

「いいから、あっち行って」と、夏生は真っ赤になって母親のエプロンを奪い取ろうとしている。夏生のお菓子作りのスキルは、この母親から伝授されたものだった。実際、クッキー、フィナンシェやマドレーヌ、シフォンケーキ、プリン、かぼちゃのタルトなど、そのラインナップも幅広く、ガトーショコラに至ってはそのへんの洋菓子屋なんてひとたまりもないほどの美味しさだった。外側が香ばしく焼きあがっていて、フォークを差し入れるとしっとりとやわらかい。耳たぶの付け根がきゅうんと痺れる甘さと、ほろにがさ。夏生と親しくなって親友の座を獲得してからは、ことあるごとにお菓子を作る夏生の家に呼ばれて味わうのが恒例行事になりつつある。

「お母さんがいると照れくさいんですよ」

わたしは二人の間をとりなすように、やんわりと言った。照れ隠しで、すこし言葉が乱暴になる夏生がいじましかった。夏生のお母さんは、ころころとよく笑う明るい人で、小柄で愛らしく、自分は「男に愛される女である」という存在の核心に何の違和感も持ったことのなさそうな人だった。そして、全ての母親のお手本になりそうなほどの、悪意なき無神経さをいつもしっかりと装備していた。だから、時々、わたしや夏生のような悩める女子高生の自尊心を、天使のような笑みでぺしゃんこにする。以前、夏生が、心底苦しそうに打ち明けてくれたことがある。

「お母さん、わたしのこと、本当に、普通の娘だと思ってるんだよね。ほら、うち上に男が続いたから、とにかく女の子への思い入れがすごいっていうか……絶対に似合わないのに、スカートとか、白いブラウスとかを勧めてくるの。少しは女の子らしくしたら、って。小学校くらいまでは買い物行ったりとか、全然苦痛じゃなかったんだけど、もうこんなガタイだから、流石にさ」

たぶん、自分が娘のことを理解していないなんて、これっぽっちも思いつかないんだろう。夏生が「女の子らしくしたい」と「女の子らしいものが似合わない」というふたつの想いに引き裂かれながら気持ちの浮き沈みになんとか踏ん切りをつけていることなんて、想像だにしてない。人を傷つけるのは常に悪意であるとは限らないんだと、こんな大人を見ているといつも思う。

夏生はお母さんをなんとか説き伏せてリビングのお父さんの隣に座らせ、取り上げたエプロンを身につけた。わたしは冷蔵庫にもたれかかり、夏生が真剣な表情で調理器具を確認している様子を眺めた。出来上がるガトーショコラがわたし以外の誰かのために贈られるものだったとしても、夏生の役に立つことがしたかった。とはいえ、わたしにできることはといえばいつも、夏生の指示通りに、粉の重さを計ったり、へらで「さっくり」混ぜ合わせたり、メレンゲの泡立てをバトンタッチするくらいのものなんだけど。

夏生は薄力粉の袋を手に取ったが、不意におずおずとわたしの方を見てきた。

「清水くんが気に入ってくれるかどうか、わからないけど……」

 出たよ、清水。

「気に入るでしょ。味が分からないほどの大馬鹿だったら、そもそも、夏生が付き合う価値なんてないよ」
「えっ、そ、そんな、そんなことないよ」

夏生はわかりやすいくらいに動揺し、今にも泣くのではと思うほど顔をくしゃりとゆがめる。わたしは、潤んで揺れる彼女の瞳をきれいだと思う。

「わたしみたいな、ほとんど男みたいな女からチョコもらって、きもちわるいって、思われないかな」

がっしりとした肩を落として、蚊の鳴くような声でつぶやく夏生がいとおしくて、胸にぐーっと、ものすごいスピードで潮が満ちるみたいに、自分でも信じられないくらいのやるせなさや、それとない交ぜになった興奮が押し寄せてくるのを感じた。気持ち悪くないよ。そんなこと、全然、ない。心の底からそう思う。でも、わたしが肯定をしても、否定をしても、結局、彼女の中の自己像はなにひとつ塗り変わっていかないんだという事実が、ひたすらもどかしい。彼女にとって、わたしがそれっぽちの存在なんだということが。友達としてわたしにできるのば、親しげに肩を叩いて、「そんなことないよ」と言うことだけだった。

「だいたい、男ってギャップに弱い生き物っていうじゃん?」
「そうなの?」夏生は眉をひそめた。
「そうそう。女の子っぽいファッションなのに実は芯がしっかりしてて自己主張が強いとか、逆に、いつもクールで強がっている子が実はかわいい物大好きだとか。そういうのに弱いんだって」
「じゃあ、180センチ越えの大女で、筋肉ムキムキだけどお菓子作り得意っていうのは……」

「たまんないでしょうよ」と力を込めて頷くと、夏生は、あはは、と笑った。わたしの言っていることに同調した笑いじゃなかった。反応に困る冗談を受け流すときの笑いだった。

お尻のポケットでケータイが震えた。確認すると、さっき別れた男からのメールが入っていた。

『チョコくれよ』

 文面を見て小さくため息をつくと、夏生が顔を上げた。

「大丈夫? メール?」

「うん」わたしは大して表情を変えずに答えた。「なんでもないよ、大丈夫」


夏生が、清水隼人に恋に落ちたのは三週間くらい前の話だった。当たり前だけど、自分が心底好きになった子が、ほかのやつに恋に落ちる瞬間なんて見たくなかった。

清水はわたしたちのクラスメートだけど、ほとんど学校に来ない。「大人の言うことなんて聞かないぜ」と主張するためなのが見え見えの、わざとらしい茶髪や、睡眠不足をアピールするための怠そうなしぐさが、わたしに言わせるとどうにも野暮ったく、そして、そういう男子にありがちな「実は悪いやつじゃない」という古典的な手法にもうんざりだったけど、まあ、実際悪いやつではない。顔も悪くない。珍しく、夏生を見下ろせるくらいの上背もある。駅前の繁華街でヤクザっぽいおじさんたちと話していただとか、年上っぽい女の人とラブホテルに入っていくところを見かけたとか、清水についての噂は校舎のいたるところでさざめいていた。清水の放つ、一筋縄ではいかない、どこか別の世界に連れて行ってくれそうな雰囲気は、この年頃の女の子たちの気持ちを落ち着かなくさせる。ようするに、モテるのだ。こういう男こそがチョロくて呆れるくらいどうしようもないんだということに、女の子たちはなぜか気付かない。

その日、夏生は、体育の授業でバスケをしているときに、交錯して転びそうになった女の子を庇って床に倒れ込み、足首をねん挫した。夏生の身体が倒れていく様子が、わたしにはまるでスローモーション再生のように見えた。あまりにも衝撃的で、心臓が口から飛び出るかと思うくらい驚いて、そして、口をパクパクしただけで言葉は何も出てこなかった。庇われて傷一つ負わなかった女の子は、夏生のそばにしゃがみ込んで何度も、何度も謝り倒したけど、夏生は「わたしが受け身取りそこなっちゃったから」と、恐縮して手を振るばかりだった。片足を引きずってうまく歩けず、誰かが肩を貸すなりおぶるなりして保健室に連れて行ければ良かったけど、その場にいる誰にとっても夏生の体は大きすぎた。みんながそのことに気がついた。体を縮こまらせる夏生の顔には、「消えて無くなりたい」と書いてあった。誰もが直接的なことを言い出せず、体育の教師もそんな空気を察したのか、保健委員の子に、松葉杖か車いすを借りてきなさいと指示を出した。そんな時に堂々と手を挙げたのが、清水だった。「俺がおぶってく」。

夏生のまわりにできていた人垣は、その言葉の主を通すためにぱっと真っ二つに分かれた。女の子たちがひそひそ声と、好奇の視線を交し合う。夏生は、見てるこっちがかわいそうになるくらい真っ赤になった。ぱっちりした目に縁取られたまつげが、ぱさ、ぱさ、と大きく上下して、泣きそうな、困ったような顔になる。

清水におぶわれた夏生は目に見えて動揺していた。どこに手を回したらいいのかもわからず、不自然に胸を清水の背中から浮かしたせいでバランスを崩しかけた。

「ちゃんとつかまれって」と清水が言ったとき、夏生は首まで真っ赤になった。わたしは、死んだ。清水は、ふだんの怠そうな様子が嘘みたいに、思いのほかしっかりと夏生を支えて「男らしさ」 を発揮していた。どうせ、サボる口実ができたとか、そんな理由で手を挙げたくせに。夏生より身長が高いなんてずるい。だって夏生は男の子が好きなんだから、おんぶなんてされたら、コロッと惚れちゃうに決まってる。わたしもついて行こうとしたけど、体育教師のゴリ(女)に「あんたはいいでしょ」と押しとどめられて、泣く泣く二人を見送ることになってしまった。そもそも、清水がその日、体育の授業に参加していたことはほとんど奇跡に近かった。よりにもよってそんな時に、いろんな偶然が重なり、もつれ、絡み合って、夏生はまっさかさまに落ちて行ってしまった。わたしの手の届かないところへ。

それから夏生は、清水の話しかしなくなった。「清水くんて、やっぱり不良なのかな」「清水くん彼女いるのかな」「清水くん卒業したらなにになるのかな」。うんざりだった。でも親友というポジションにおさまっている以上、彼女のメルヘンな恋の世界に付き合わざるを得なかった。あまりにもメルヘンすぎた。「彼女いるのかな」っていうか、清水なんてもんは、もう既に一人くらい妊娠させてたっておかしくなかった。そして、卒業したらそのへんのガソリンスタンドか、駅前のビデオ屋か、ファミレスあたりで働き始めるに決まっていた。そもそも卒業するわけがなかった。そのうちヤバイ先輩に紹介された仕事でクスリの横流しかなんかに関わってヤクザの鉄砲玉にされた揚句うっかり逮捕されるか、強めのヤンキー女子(意外と堅実)を妊娠させた咎でがっちり首輪をつけられ、まともな職業に就くよう調教されるか、どちらかだ。大穴で、東京の歌舞伎町に身一つで飛び込んでナンバーワンホストを目指すとか。

夏生の視界をおおうピンク色の霞は、たぶんよっぽど痛い目に合わないと晴れないものだとわかっていたから、わたしは彼女がとんでもない事態に陥らないようにしっかりと見張っておく必要があった。恋する乙女は何をするかわからない。夏生のように自尊心の低い女の子ならなおさらだ。放っておいたら、「はじめては清水くんがいい」などと自分の身体を安売りし、股を開くとかいう暴挙に出ないとも言いきれない。このナイーブで純情な女の子を傷つけてはならないのだ。とはいえ、同時に、傷つかない程度に衝撃を与えて、早く夢から覚ましてやらなければならないと思った。夏生がわたし以外の人間を見ていることが純粋に不愉快だったし、夏生の恋心が仮に成就したとして、清水相手に健全な関係を築けるとも思えなかった。

夏生が捻挫した足は大事には至らず、二週間ほどですっかり完治して、元どおり柔道の練習に精を出せるようになっていた。帰宅部で暇なわたしは、時々、夏生の部活を体育館の二階のスタンド席からこっそり見学した。胴衣をバリッと着こなして、狙った獲物を舐め回すような真剣な眼差しで組み合いに励む最高にかっこいい夏生が、いざ体育館を出てしまえば、せつなさとメランコリーに押しつぶされそうなただの恋する乙女になってしまうのが悲しかった。いつも思う──男って、そんなにいいものなんだろうか。夏生も清水を想うとき、わたしみたいに、唇を重ねた時の感触や、手のひらに吸い付く肌の柔らかさを想像しながら、頭がぐらぐら、沸騰するくらいに興奮することがあるんだろうか。全くもって、勝算がない戦いに身を投じてしまった自分の無謀さに呆れ、それでも手放せない想いに、胸をかきむしりたくなることがあるんだろうか。

夏生が清水を諦めるにはどうしたらいいか。考え抜いた挙句、向こうから振ってもらって失恋に持ち込むのが手っ取り早いのではないかという残酷な結論に達した。

「そんなに好きなら、バレンタインにチョコあげたら?」

学校からの帰り道に、さも「いま思いついた」とでもいうようにさりげなく提案すると、夏生は大げさに体をびくつかせて「無理だよ!」と叫んだ。

「ぜったい、気持ち悪いと思われるって」
「すぐそうやって自分のこと悪くいう。よくないよ。夏生、すんごいかわいいんだから」
「かわいいっていうのは、弥生みたいな女の子のこというんだって」

知ってるよ自分の可愛さくらい。と、うっかり喉元まで出かかった。そういうことじゃない。わたしの可愛さなんてどうでもいい。夏生にはただ、自分がどれだけ魅力的か、わたしにとってどれだけ特別な存在かを知ってほしいのに。ため息をついて、「今いいからそういうのは」と適当に応答する。

「そんなに好きだったら、一歩踏み出して、なにかチャレンジしないと後悔しない?」

わたしは辛抱強く夏生を説得した。でも、喋りながら自分の口から飛び出す言葉にぶん殴られている気分だった。

「気持ちを伝えるのにいいタイミングじゃん。いきなり告るのはハードル高めだけど、バレンタインって、ほどよくふざけた祭りみたいでちょうどいいっていうか。だって、あちこちでみんなチョコ渡しまくってるわけだし。いつものガトーショコラ作ってあげたらいいじゃん」


夏生は、湯煎にかけてとろとろの液体状になった板チョコに、泡立てたメレンゲを半分だけ投入し、泡だて器で優しく撫でるように混ぜはじめた。わたしが、途中で泡だて器をバトンタッチして仕上げたメレンゲ。残りのメレンゲをゴムベラで丁寧に掬い取ると、チョコレートのボウルに落としていく。夏生の大きな上半身が、小さなボウルの上に覆いかぶさっている。大切な宝物を丁寧に磨くような仕草で手を動かしている。茶色と、白が混ぜ合わさって、また別の色に変わりゆくのをわたしはぼんやり眺めた。夏生にかき混ぜてもらえるなら、メレンゲに生まれ変わるのもきっと悪くない。

「愛情こもってんの?」と聞くと、「うん」と小さな返事。夏生の耳はピンク色に染まっている。くそったれ。
「清水くん、ほんとうに受け取ってくれるかな」
「まあ、悪いやつじゃないから、受け取ってはくれるでしょ」
「……帰り道に、道端に捨てられてるのとか見たら死ぬ」
「いやいや、ないよ、どんなネガティブだよ」

生地が完成した。あらかじめ、バターと薄力粉を内側に塗り込み、冷蔵庫で冷やしていたステンレスの円型をわたしが取り出すと、夏生は慎重にボウルを傾け、中身を流し込んでいく。それから、円型を二十センチくらい持ち上げて、シンクの上に何度か落とし、空気を抜く。この一連の工程も、何度も見てきた。すでに温まっているオーブンの中に慎重に丸型を配置し、一八〇度、四〇分、とダイヤルを回してから、バン、とオーブンの戸を閉めた。あとは焼けるのを待つだけだ。

「弥生」名前を呼ばれて、どきっとした。
「あのね、ありがとう」

夏生は無邪気に笑っていた。彼女をそそのかして、男にふられるように仕込んでいるわたしはなんなのだろう。まるで、子どもの兵士に爆弾を渡して自爆して来いって命令する非道なテロリストだ。

「お母さん、あと焼くの待つだけだよ」

夏生はリビングにむかって歩いていった。お母さんとなにか言い合う声。時々、低いお父さんの声も混じる。テレビのザッピング。わたしは、少し離れた位置で、手持無沙汰に台所の布巾をいじくりながらその様子を眺めていた。。夏生。なつき。ナツキ。まるで魔法の言葉だ。わたしの名前と一文字おんなじ。「生」の字。「弥生」と「夏生」。でも、まったく違う音になる。夏生の名前はわたしを殺す。わたしを生かす。わたしを、世界一みじめな女にする。


清水が月曜日に学校に来るのか、夏生は最後までそれを心配していた。でも、わたしには彼が来ているという確信があった。

「来てなかったら、弥生、もらってくれる?」

その申し出は願ってもないものだったけど、「もし来てなかったら、家まで届けに行こう」と言った。夏生は必死に首を振った。

「そんなの無理に決まってる」
「だって、せっかく作ったんだから」
「だから弥生に食べてほしいって」
「だめ、目的を達成しないと」

校門の横の花壇には霜が降りていた。銀色の雲の向こう側で、太陽はうすぼんやりと鈍く光っている。朝から微妙な落ち着きのなさが学校中に蔓延していた。バレンタインなんていうのは、基本的には女の子が浮かれる祭りだ。男の子たちは、キョーミねェという体を崩しはしないものの、くれるならば満更ではない、という期待感を押し殺せていない感じ。

はたして清水は学校に来ていた。その日は一日中、授業の合間の教室移動や、休憩時間、昼休みなどに方々でつかまって、チョコレートを押し付けられているらしい清水を目撃した。夏生はそんな様子を見るにつけ、目に見えて焦りを募らせていたが、最初から放課後に狙いを絞っているらしかった。理由は、クラスが一緒なので否が応でも同じ空間にいなければならず、渡した後に気まずい雰囲気になったら残りの時間がいたたまれないからだ。しかし、最後の最後まで往生際が悪かった。渡すときにわたしに隣にいてほしい、などという。

「いや、だめでしょ、こういうのは一人で行かないと」

「おねがい、弥生」夏生に強引に肩を掴まれ、うるんだ瞳でじっと見つめられてひっそりと息を飲んだ。おねがい、などと言われてしまったら、もうどうしようもない。

清水は、放課後のホームルームが終わるや否や教室の外に出て行ってしまった。もう、女に呼び止められたくないとでも言わんばかりの早業だった。わたしと夏生もそそくさと荷物をまとめ、怪しまれない程度に距離を取って清水の後を追いかけることにした。

冷たい板敷きの廊下には冬の乾いた空気が張り詰めていて、スカートとハイソックスの間の、むき出しの膝小僧をチクチクと刺激した。藤色と橙色が混じり合って淀む冬の夕暮れの中で、グラウンドの周りに等間隔に配置されているLED照明が、トラック沿いに一列になって走る陸上部員たちの影を地面に長く伸ばしていた。三々五々、部活のジャージやビブスを着込んだ運動部員たちがグラウンドに向かう掛け声と、駅前に繰り出す約束をかわす女の子たちの甲高い笑い。いつもどこかで自然発生している男の子たちの幼稚な追いかけっこ。

「清水ぅ」

となりのクラスの男の子が昇降口に向かう清水を呼び止めた。なれなれしく肩を抱き、一緒に歩いていく。チンピラ風の、清水よりもはるかに頭の悪い子だ。亀井。

「なあ、この後カラオケ行くけど、お前も来んべ? トモたちも来るぜ」
「いかねえ」
「えー? なんだよ、なんかあんの?」
「忙しいんだよ」
「嘘つけ、いつもヒマなくせしてよ。つーかお前、チョコどれかくれよ、腹減っててさ」
「おう」

この上なく端的で、そっけない清水の返事が、隣を歩く夏生の胸を残酷にも突き刺したのが分かった。小さく息を飲んだ空気の振動。

「軽いなー。そんなんだったら最初からもらわなきゃいいのに」
「泣かれたりしたらめんどくせえし」
「はは、やさしいのかクズなのかわかんねェ。いやクズだ」
「なんなら全部もってけば」
「いやちょっと手作りとかはキモいからいらねェ、ゴディバとかねェの?」

清水が広げたスクールバッグの口を亀井が覗き込もうとした時、わたしとばっちり目が合ってしまった。

「あ──っ!」

五メートルくらい離れたところから彼は大声で叫んだ。何人かがつられて振り返る。もちろん清水も。そしてわたしを見て「あっ」という顔になった。

「瀬島ァ! 俺にチョコをくれー!」

阿呆みたいにふざける亀井に、周囲の男子たちが「あいつやっぱバカだろ」とへらへら笑いながら、わたしがどういう反応をするのかを興味深そうに伺ってくる。仲間内で「面白いヤツ」認定されるために、女子に無駄絡みする性根が嫌いだ。となりの夏生を見上げると、自分の身体の前で紙袋をぎゅっと握りしめ、うつむいている。わたしは亀井を睨みつけた。「うざいんだけど」。

「なんだよ、学校一の美人にチョコを貰いたいという俺の男心をだなあ」

亀井がごちゃごちゃ言っている間に、夏生が震える声で「ごめん」とわたしの耳元でつぶやいた。そして、止める間もなくものすごい勢いで走り出すと、清水と亀井を風のように追い抜いていってしまった。わたしもあわてて駆け出した。

「夏生!」


中二で処女を喪失した。

でもわたしは自分がやったことが何を意味するのか、いまいちよくわかってなかった。だって、自分の上に覆いかぶさって、こすれるラテックスの中に白く濁った体液を吐き出した男の子のことが、わたしはちっとも好きじゃなかった。ただ、自分は男とセックスできる人間なんだということを確認したかった。ただ、狂おしいほどに、それだけが知りたかった。

学校では、更衣室で着替えるたびに、女の子たちの無防備な制汗剤の匂いや、ワイシャツに透けるブラジャーや、頬を包み込むように薄く密集する産毛なんかにいちいちドキドキしていた。発情していたというよりは、怖かった。わたしをこの社会で異質とされる存在にしてみせる彼女たちの存在が。

中二の時の担任の、社会科の女の先生が好きだった。小テストの返却で「瀬島さん」と名前を呼ばれると、わたしの全身の毛はピリッと逆立った。ちょっとでも彼女の視界に入りたかったから、彼女の大学時代の専攻だったという近代史が苦手だということを印象づけるため、わざと散々な点数を取って補講を受けたりした。彼女は日露戦争時のロシア貴族のことや、中国共産党の政策について熱く語ってくれたけど、わたしはノートをとるふりをして、ずっと彼女のまとめ髪の後れ毛や、小さな桜貝のような耳、中途半端な長さの前髪を耳にかける仕草を見ていた。

なんでわたしが男の子とセックスをしようと思ったかというと、その先生がある日突然結婚してしまったからだ。「ある日突然」っていうのは、多分子どもの思い込みにすぎない。わたしたち生徒にとっては学校で過ごす日々が人生のほとんどすべてだけど、先生にとって学校はただの職場なわけで、その職場を一歩出れば、そりゃ当然一人の女として、自分の家のキッチンで料理をしたり、友達と飲みに行ったり、お気に入りのブランドで服を買ったりするだろう。そして、もちろん恋だってする。人を好きになって、いつの日かお互いに想い合うようになって、かけがえのない二人になるという、お決まりのあれだ。

先生の左手の薬指に控えめに光るリングが日の目を浴びると、クラスの女の子たちは金切声をあげて先生に詰め寄った。どんな人なの? どれくらい付き合ったの? 先生はその人のどこが好きなの? どこでプロポーズをされたの? 結婚式は? 困ったみたいに笑いながらも律儀にあれこれ答える先生を見ていて、わたしは、自分のハートを胸の定位置にくくりつけていた幾重ものリボンが、はらはらとほどけていくのを感じていた。ハートは真っ逆さまに落ちてぺしゃんこに潰れた。誰かが改めて確認をするまでもなく、先生の結婚相手は男に決まっていた。わたしはその時猛烈に、答え合わせをしなきゃ、と思った。

男の子とのセックスは拍子抜けするくらい普通だった。血は出たし、死ぬほど、めちゃめちゃ痛かったけど、十四歳の男の子はわたしの性器が挿入に耐えうるほどの状態だったかどうか、ということにはまるで関心がなかったので、わたしの挙動がちょっとおかしかったにせよ問題なかった。男の子とセックスをしたという既成事実が手に入って、わたしは心の底から安堵した

わたしは男の子たちと答え合わせをし続けた。気持ち良さなんて知らない。いつも股にローションを塗りたくっておく。自分は男の子とキスをして、セックスができる、「普通」の「一般的」で「平凡」な女の子なんだと思いたかった。女の子の体に触れたい、抱きしめたい、と思う気持ちは消えたわけではなかったけど、その願望を隠し持っていても生きていられることが不思議だった。だって、どんな子どもも、「嘘をついてはいけません」と教えられて育つ。でもいったいぜんたいどうだろう。わたしが生きるということは嘘をつき続けるということだ。母さん、父さん、先生、あと、なんかよくわかんないけど総理大臣的な偉い人たち。ハロー、わたしは嘘つきです。ざまあみやがれ。

家にあったパソコンでいろいろ調べるようになり(家族共用だったので毎回履歴を消した)、わたしは同性愛について理解を深めていった。すると今度は、男とセックスができる自分はレズビアンではないのでは? と思い始めた。レズビアンとしてカミングアウトをして生きている人たちの話をネットの記事や掲示板で読んだりすると、なんだか自分の体がものすごく汚れているような気がしてきた。ゴミでも捨てるように男の子にくれてしまった、この体。どんなに綺麗だとか、美人だとか言われても、もうそんなことどうでもよかった。誰も自分のことを知らない場所に行きたい。わたしの頭の中では、新宿二丁目が東京ディズニーランドのような理想郷として美化されている。もうなんだっていいから、そこで人生をやり直したい。一回死んでから生まれ変わるみたいに。

高校の入学式。わたしは同じクラスで、隣の席に座った夏生に出会った。


通学路を死ぬ気で走った。商店街のアーケードをくぐり、コロッケの油の香ばしい香りを振り払い、布製のキャリーカーにつかまって歩くおばあちゃんや、ガニ股でのろのろ自転車を走らせるおじいちゃんに何度かぶつかりそうになり、散歩中の秋田犬のリードをかすめて吠えたてられ、国道のなかなか変わらない信号に業を煮やして歩道橋を駆け上がり、駆け下り、そして、すっかり濃紺の闇に沈んだ住宅街の隅っこに打ち捨てられたみたいな駐輪場の看板の陰に、わたしはやっと、夏生を見つけた。鼻と目元を真っ赤にして静かに泣いていた。涙が次から次へと溢れ出し、透明のしずくがウールのダッフルコートの上を雨垂れのように滑り落ちていく。紙袋を自分の前に抱えて、指の節が白くなるくらい強く、持ち手を握りしめていた。

「やっぱだめだった」夏生の声は濡れていた。

「最初から無理があったんだよ」
「そんなことない」

あわてて打ち消したけど、走り倒してきたせいで息が上がり、あえぐような弱々しい声は我ながら説得力に欠けた。だって、体育会系の夏生と違ってこっちはスポーツはセックスしか知らない根っからのインドア派だ。

わたしは自分のコートのポケットからハンドタオルを取りだし、夏生の目元を優しく拭った。夏生は、されるがままで、力なく項垂れていた。心拍数が上がっているから、たぶん、おかしなことになってる。わたしは、紙袋を握りしめる夏生の手を自分の手で包み込み、熱を分け与えるようにゆっくりさすった。冷たく、こわばった拳は、なかなかほつれていかない。

「清水なんて、大したやつじゃないよ」

わたしはそう言い聞かせた。亀井のせいで少し計画から逸れたけど、当初予期していた結末と、そう大差ないところに着地してきている。夏生は傷つき、そして今、わたしの目の前に落ちてきた。

「夏生はいい子だし、もっといいやつが絶対にこれから見つかるから。それまで、大切な気持ちは取っておきなよ」

「弥生にはわからないよ」夏生の声は震えていた。かすれた息がひゅうひゅうと喉の奥から絞り出されるようで、ほとんど音になっていなかった。そして、また涙が堰を切ったように溢れ出てくる。わたしは慌ててまたハンドタオルを押し当てようとしたけど、夏生がそれを驚くべき力強さで振り払い、わたしは一歩後ろによろめいた。

「弥生にはわからないよ、だって、そんなに綺麗なんだもん。わからないよ。どうせわたし、かわいくないもん。体、ごついし、背もでかいし。制服だって似合わない。スカート、おかしいし。男みたいだもん。外で、女子トイレ行ったら、二度見されるんだもん」

夏生はしゃくりあげながらまくし立てた。こんなにも、激しい感情をあらわにする夏生を初めて見た。夏生は、柔道の胴着を着ている時以外はいつだって、自分の存在を押し殺すようにひっそりと佇んでいるから。大きすぎる体を折りたたみ、誰にも見つかりたくないと願っているかのように。

「わたしだって、本当は、弥生みたいに生まれたかった。小さくて、かわいくて、髪が綺麗で長くて、顔がちっちゃくて、細くて──弥生にはわからないよ、わたしの気持ちなんて、わからないんだよ!本当は、わたしがお菓子作ってるの見て、変だと思ってたんだよね?ブス、キモいとか、思ってたんだって」

「やめてよ!そんなこと思ってないよ!」たまらず叫んだ。喉の奥がひりついて、焼けるようだった。

「わたしのいうこと、なんで信じてくれないんだよ、夏生、こんなに、頑張り屋さんで、かわいくて……」

目の前の夏生の姿が、ぐにゃりと歪んだ。とっさに夏生の手を握りしめ、駐輪場の看板に夏生の背中を押しつけるように自分の体重をかけた。上を見上げると、夏生が、黒目がちの瞳をすっかりうるませて、わたしを見つめていた。信じられないくらい興奮した。夏生にこんなに近づいたのは初めてだった。わたしたちの間にはガトーショコラを入れた紙袋があり、夏生に身体をすっかり預けると紙袋はカサカサ音を立てた。夏生の左手が、わたしの手のひらを抜け出し、とまどうようにわたしの背中に回された。夏生と抱き合ってる、わたし。つま先立ちになったら、夏生の唇に自分のそれが届きそうだった。

本当につま先に力を入れようとした瞬間、わたしのコートのポケットでケータイのバイブ音が激しく震えた。夏生の身体がびくりとした。今の今まで、わたしと夏生を包み込んでいたおぼろげに妖しい空気は、すっかり砕け散って、跡形もなかった。

夏生が鼻をすん、と鳴らして、少し体を離した。

「……出ないの?」
「うん、いい」

二人の間には、離れて寂しいような、逆に、近づきすぎて気まずいような、微妙な空間がぽっかり出現した。無遠慮な携帯は空気をやたらめったら振動させて、やがて、息絶えるみたいに止まった。

夏生はまだ涙で頬を濡らしたままぼんやりしていたけど、ややあって、手に持っていた紙袋の中からガトーショコラの箱を取り出した。丸いケーキを六等分し、夏生が一番形がきれいなものを選んで、粉砂糖を丁寧にふりかけた。箱はパステルピンクのラッピングペーパーと、つるつるした白いリボンで彩られた。リボンに挟み込まれたパール加工の小さなギフトカード。「Happy Valentine!」という金の箔押しの筆記体。夏生が大好きな、愛くるしい世界の色と光がそこにあった。

「これ、よかったら食べて」

差し出された箱を、ほとんど何も考えずわたしは受け取った。この世で一番この箱を欲しがっている人間は、確かに間違いなくわたしだ。

「ねえ、清水のこと、ほんとに好きなの?」

伺うと、夏生はわたしを見て、そして、眉を八の字にゆがめて、また泣きそうな顔になった。「わかんない」その声はかすれていた。

「わかんないよ。でも、苦しい。頭ン中から、ぜんぜん、いなくなってくれない。ずっと考えちゃうの。体育で怪我して運んでくれた時、わたし、ほんとうに恥ずかしくて、だって、絶対に重いから。それで、清水くんが途中から震え始めたから、わたし『重たいよね?』って聞いたの。そしたら『重くない、気にすんな』って。重くないわけないんだもん、だって、わたし75キロあるんだよ」


しばらく駐輪場の前でぼんやりしていた。すぐ隣の自動販売機がブーンと音を立て続けている。地球の鍋底でぐらぐら煮えているような気分だった。わたしは女の子が好きで、夏生に恋をしていて、夏生は清水のことが好きだった。夏生のガトーショコラが入ったピンク色の箱を持って突っ立ったまま、わたしはこの十六歳という年齢に永遠に閉じ込められて出てこれなくなるような気がした。

またポケットの中でケータイが鳴った。血管が切れそうだった。むしゃくしゃしたまま、もう二度とかけてくるなと言おうと思って通話に出た。

「お前、いまどこ?」相変わらず、横柄な声。

「外だけど」
「あ? ずっと外にいんの? 何度電話しても全然でねぇから」
「取り込み中だったの」
「なんか、林が走ってったけど……あれなんだった? 大丈夫なのか?」
「なんでもない」
「お前、俺のチョコは」
「だから、ないってば」
「今日、もう帰るのか。うち来いよ」
「帰る」
「来いって。いまどこだよ」

その時、電話の向こう側の男の声が弾んでいることに気がついた。歩きながら話している声だった。わたしは咄嗟に電話を切って足早に歩き出した。と思ったら突然肩を掴まれて後ろにのけぞった。羽交い締めにされるように抱きつかれていた。こうなる気がしていた。少し前から足音が聞こえていた。夏生よりもがっしりした体。あたりまえだ、男だから。わたしの胸を、抑え込むみたいに抱き寄せる逞しい腕。シトラスの香り。急に体が反転させられて、駐輪場の看板に強引に背中を押しつけられた。バァンとステンレスが揺れる大きな音が道路に反響した。背中がビリビリと痺れた。

「清水」

文句を言おうと思って顔を上げたら、唇がふさがれていた。爪先立ちでも届かないから、腰を強く掴まれて上に抱き上げられ、もがく足がプラプラと宙に揺れた。男の舌が生き物みたいにわたしの口の中を這いまわった。気持ち悪かった。わたしは夏生の唇を思った。でも、どうしたって手に入らない。好きになりたくなかった。わたしの人生は夏生のせいでめちゃくちゃだ。早く卒業して、東京に行って恋人を見つけたい。夏生に似た、わたしのことを好きになってくれる恋人を。早く。一刻も早く。ちゃんと生きたい。嘘をつかなくて済む人生が欲しい。

好き勝手にわたしの唇を嬲ってから、彼はようやく唇を離した。

「なんで弥生はチョコくれねぇの」
「弥生って呼ぶな」

腰を抱いたまま離してくれないので、清水の胸をめちゃめちゃに叩いて抜け出そうとしたら、清水はいきなりわたしのカバンをひっつかみ、ジッパーを開けて中に手を入れてかき回した。

「なにすんの!」
「あるじゃん、これ、なに? お前の手作り?」
「それはわたしがもらったんだってば!」

清水が、パステルピンクの箱を高々と持ち上げ、わたしの手の届かないところにやってしまったので、わたしは半狂乱になってその箱を取ろうと清水のブルゾンやら顔やらを引っ掻き回した。清水は悲鳴を上げた。

「いてっ、おい、なにすんだよ」
「返してよ! わたしがもらったんだから!」

叩いてもひっかいても、大きな体はびくともしなかった。情けなくて、苦しくて、悲しくて、もう頭がぐるぐる廻って、なにがなんだかわからなくなり、気が付いたら声を上げて泣いていた。清水につかみかかったまま、子どもみたいにわあわあ泣きわめいた。

「え、弥生、おい」

弥生って呼ぶな、と言おうとしたけど、喉が引き攣れて、かすれた嗚咽しか出てこなかった。なにもかもがやるせなかった。こんなつもりじゃなかった。好きでこんなふうに生まれてきたわけじゃなかった。好きになった子が自分のセフレに恋に落ちちゃって、そしてその恋路を邪魔して結局よくわかんないことになっちゃって、もう本当に笑える。笑えすぎて泣ける。

「ごめん、弥生、泣くなって……そんな泣くことねェだろ」

清水はあたふたとわたしの両手に箱を握らせて、指先でわたしの涙をぬぐった。つめたい空気に塗れた頬が触れてぴりぴりする。

「わたしがもらったんだから、わたしが食べるんだから」

しゃくりあげながらうわごとみたいに繰り返すと、清水はわたしの頬を両手で包み込んで、わかったから、と何度も言った。わたしはもうほとんどひしゃげてしまった箱を握りしめて泣き続けた。

 爆弾を抱えて死んだのは夏生じゃなかった。わたしだった。


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