8月15日
小学生の頃は8月15日というとテレビでは朝から終戦記念番組をやっていて「とにかく心から悼まなければいけない日」、であって子供にとっては「テレビがつまらない日」、であった。
でも、大切だったと思う。
父方の祖父(田中邦衛似)は戦争で南方に行って帰って来た人だった。けど祖父から戦争の話は一度も聞くことはなかった。
その頃の写真を子供の頃一枚、見たことがあって、半袖の軍服を着たおじいちゃんはなんかテントの横に機械みたいなもんと一緒に映っていた。おじいちゃんは通信隊だったのだ。
通信隊だったから、帰ってこれたのだ、と思う。
音大を出て音楽家になったので、録音機材とかに詳しかったろうから、それに英語も多少は読めただろうし、多分それで通信隊だったんだろうと推測する。
どういう経緯で音楽家になったのかとか、もはや分からないけど(なにせ私の父親も知らされてないようなのだ)、戦前はジャズバンドのメンバーとして榎本健一、エノケンと一緒にステージに立ったこともあるらしい。らしい、じゃなくて、舞台でエノケンと踊るおじいちゃんの、スチール写真みたいなものが残っている。(その写真をお見せしたいとこだけどイトコが持ってるのですみません。)
高校生になって私は突然ギターを弾いて歌うようになるんだけど、親戚からは「隔世遺伝ね!」とよく言われた。私はほぼそのせいでジャズを聴いてこなかった。自分が音楽を選択したのはどちらかといえば家事をする時に必ず音楽(歌謡曲)をかける母親の影響だと思っていたし、自分がジャズをやりだしたら絶対にますますそう言われると思ったからだ(反発する性質)。
そうなんだけど、最近川崎燎とか聴いてたらすごくフィットする。うーん。ジャズいいな。
戦争から帰って来たおじいちゃんはまた音楽家活動に戻り(本人はバンドのことは「楽隊屋」と言っていた)、一時期は羽振りがよかったらしい。自分のバンド=「楽隊」を持つまでになったらしい。そして最後にお金を持ち逃げされたらしい。(嗚呼、お金に縁のないあさか一族。)
おじいちゃんはその後、自宅でオルガン教室をやったり、キャバレーのハコバンをやったり、温泉地を廻ってホテルのハコバンやったり、しながらだんだん仕事も無くなって、しまいにはサックスを質に入れた。
質草になる前は祖父の家(借家)には数本サックスがあった。
小学生の時、おじいちゃんのアルトサックスを吹かせてもらった事はうれしかった。
最近ふと、南方で撮られたという軍服のおじいちゃんのあの色褪せた1枚のスナップが頭によぎるのだ。
おじいちゃんはテントの横に立って、どこかを見ていた。横顔というかななめ顔だった気がする。子供の頃に見たきりなので記憶がおぼろげだけど。所在なさげだった。
戦前にサンフランシスコ行きの大型客船の中での演奏の仕事もしていたおじいちゃんは、アメリカと戦争していることに絶対に乗り気じゃなかったろうな、心の中では。だってジャズマンだもん。
ジャズ演奏できなかったんだもん。
好戦派では勿論なかったろうけど、非戦派でもなかったんじゃないだろうか。
自分がやりたいことをやりたい。
それだけだったんじゃないかな。
仲間とは戦争によって引き裂かれ、仕事も取り上げられ、その中にはきっと反発や弾圧があったりもしただろう。友人内でも意見は割れただろう。同調圧力に屈しない者は非国民だと言われただろう。
日常はどんどん戦争一色になっていく。
自分も幼い男の子2人と妻を残して、南方へ来てしまった。
戦争が終わったら、無事に生きて帰れたら、また楽隊をやれるだろうか。家族に会えるだろうか。もはやなにも想像したくない。ジャズが聴きたいなぁ。
想像すると辛いんですよね
でもなんかやたらに最近あの写真を思い出す
そして想像してみる
いったいどんな事考えていたのかと
おじいちゃんがジャズやってなくて英語読めなくて通信隊に配属されてなかったら恐らく今この私は存在してないわけで。繋がっているということ。
そして戦争で起きたこと(過去、現在、国内外に拘わらず)を自分に置き換えてちらとでも考えてみることは、大事なことだと思う。しんどいけど。
これも子どもの頃の夏休み、テレビで終戦記念特番を見てくらーい沈痛な気持ちになった効能かもしれない、
と、思えなくもない ^^;
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