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スピッツが、やっぱり良い。

我が家の朝は、日テレ。ZIPからスッキリに流れて、家を出る流れがなんとなく出来上がっている。個人的にはニュース番組をまたぐことはあんまり好きじゃないが、朝の二番組ぐらいだったら飽きもこなくて丁度いい。

ご飯を食べながらとか、準備をしながら流し見る程度だから、あまり区別は付いていないのだが、毎日観ていると好きなコーナーがなんとなーくできてくる。たとえば今だと、「いってきマーティン!」のコーナー。正式名称は思い出せないけど。朝から適度にかましてくる飯テロが心待ちになってしまっている。

それにしても朝のニュース番組を帯でこなす人たちはすごい。特にZIPで活躍しまくりの阿部さんは異常な気がしている。靖国で桜の開花を見張っていたかと思ったら、今度は事故現場でレポートをしている。一体どんな一日をすごしたらこうなるんだろうかと、ちょっと不思議になることがある。

最近はちょうど朝の支度を始めたころ、平成を回顧するプレイリストが聴こえてくる。いわゆる懐メロと呼ばれる名曲がたくさん挙げられる中、異様なエモさを出してくるのが、やっぱりスピッツだった。僕はスピッツに心酔するほど聴き込んできたわけではないが、それでも驚くほど自分の身体感覚と近いところにスピッツがあるような気がする。平成を語るにあたって不可欠な人物のうちの一つであることは間違いない。

平成に生まれ、育った僕には、とにかく生産と消費のめまぐるしい時代に映っていた。新しいものが次々と立ち上がっては消えてゆき、いつまでも埋められない空白を世間総出となって埋めようとしているような、せわしなさを感じていた。これいいな、と手に取ったモノも、あっという間に淘汰され、モノを長く大切に使い続ける必要性を実感することなく、ここまで来てしまったように思う。

しかし改めて平成を回顧してみると、すり減らされることなく残り続けてきたものもあるのだと知って少し安心した。スマホの台頭によって個々人の世界がより狭く多様化した現在、人と人との共通言語が激減してしまった。heyの佐藤さんはこの時代を「オールニッチ」と称したが、まさにその通りだ。ニッチという価値観は、共通言語となる概念がメインストリームとして存在するから成り立つのであって、個人が固有の世界を確立して共通言語的な価値観が減ってしまった今では、全員がニッチな思想の持ち主となってしまった。

個々人の感性にモノの価値が左右されるからこそ加速した表現も沢山生まれた時代だったが、それを代償にすり減らしていった価値も沢山ある。近年少しずつ、その代償に気づくように本来のモノの価値を見つめようとする動きが様々な形をもって現れてきたように感じるが、消費前提でモノを見ようとしてしまう平成体質は、簡単には拭そうになさそうだ。

元号が変わるからといって、劇的に景気がよくなるわけでも、世界が平和に向かうわけでもない。しかし、二十五歳という立場で時代の転換を迎えられることは、一つの転機になりうるような気もしている。

この先まだまだ移り変わる時代の中で、僕はどんな価値を生み出していこうとしているのか。そんなときふと、スピッツみたいなじんわりと温もり続ける表現をしたいなと思うのでした。

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