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30/* 僕の生まれ育ち

僕は、9つと6つ年の離れた兄2人の末っ子として生まれた。両親は今も健在で、ものを作って生きている。男三兄弟だからか、不思議と、驚くほど兄弟の仲は良くて、大人になった今もなお、それは変わらない。

手放しに何不自由ない、というには色んなことが起こる我が家だけど、それを差し引いても僕はとても恵まれた環境に生まれ、育ってきたと思っている。人に話すようなことではないのかもしれないけど、僕の生まれ育ちを回顧してみたくなった。

両親のこと

冒頭でも話したとおり、両親はものを作って生きている。何を作っているかと聞かれるといつも返答に困るので、そのときは作品を観てもらうようにしている。

金属とか木をつかって、いろんなものをつくっているのだ。美大を出た2人だから、ものをつくるということは生活に強く根付いていて、それは作品だけじゃなくて、生活の色んなところに現れていた。

僕が生まれたころ、専業主婦をしていた母は、身の回りのものをなんでも自分で作っていた気がする。本業であるジュエリーはもちろんだし、ちょっとしたおもちゃや、パンとかケーキとかの食べ物まで、なんでも自家製が当たり前のことのように、幼いことの僕は感じていた。

父はそのころ大学で教鞭をとっていたらしい。幼い僕には仕事のことなんて一切わからないから、幼稚園に迎えにきてくれて、そのままドライブに連れて行ってくれるお父さん、ぐらいの認識しかなかった。けどやっぱり父も、なんでも自分でこしらえる人で、今実家で使っているダイニングテーブルとイスも、父が作ったものだ。

そんな両親のもとに育ったから、僕ら三兄弟もものを作ることが好きだった。段ボールや新聞紙があれば、巷で流行っている戦隊モノのおもちゃの代用品みたいなものは作っていた。その時の痕跡は、今でも色濃く残っている。やっぱり今でも、簡単なものは自作しようと試みるし、なにかものつくりをしつづけたいなと心のどこかで常に思っている。

兄達のこと

言いづらいことは先に言っておこう。2人の兄はとても怖い。正確には、とても怖かった。父も母も厳しい人たちだったけど、小さい頃の僕からすると、2人の兄の存在が何よりも怖かった。その怖さというのは、閻魔大王を目の前にした畏怖というよりも、座禅をしながら警策で叩かれるのを待つような、緊張感に近い。

僕たちが育った小さな街では、2人の名前は色んなところで知られていて、その名前に縛られて、僕は○○君の弟だから、と色々なことを期待されることが多かった。当時は、そんな偏見が嫌で嫌でたまらなかったし、逃げ出したいと反抗したこともあった。

兄達はいつでも、僕よりもひと回りもふた回りも大きい。身長とかではなくて、概念的に。それを兄に伝えると、9つも6つも年が離れてるんだから当たり前だ、とか、お前に抜かされてたまるかと、言われるけれど、僕にとっては年の差なんて関係なく、いつでも打ち克ちたい目標であることに変わりはない。

他の誰よりも、兄2人を失望させることを僕は嫌うし、どんなことだっていいから一矢報いてやろうと今でも毎日企んでいる。反骨精神とも言えるその思いが、僕の原動力となっていて、今でも勝てた試しはないから、尊敬している。とはいえ、そろそろ勝たせてくれよと思うけれど、兄達は手を抜かないから手強い。(兄達からすれば随分とハンデをくれているのかもしれないけど)

豊かさの基準

僕はこういった生まれ育ちを、豊かなものだと思っている。だからこそ、とても恵まれた環境に育ったと思っている。

豊かさには、十人十色の基準がある。お金をたくさん持っていること、と豊かだとする人もいるだろうし、それは人それぞれだ。確かに、お金はあるにこしたことはない。ただ、僕の場合は少し違うのかもな、と。

吉田拓郎の歌詞でこんなものがある。

"やっぱり僕は人にもまれて
みんなの中で 生きるのさ"
吉田拓郎『どうしてこんなに悲しいんだろう』

僕にとっての豊かさの基準はまさにこれで、みんなの中で生きること、なんじゃないかなと思う。なんとなくね。

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