【イラスト】【エッセイ】ことばを想うこと、放つこと。
意図せずに放ったことばが、誰かを傷つけることがある。
私の想うことばは、私の中にある。
その限りでは、私のこころもあたまも、どこまでも自由だ。
でも、私の身体を離れたことばは、私のものではなくなる。
誰かの心に着地したことばは、誰かのものになる。
*
ものがたりとは、スリルやアクションのためにあるものではない。
少なくとも、私にとっては。
ものがたりとは、いつでもいつまでも、ひとの真心のためにあるはずだ。
ときどき、自分の器の限界を感じる。
ものがたりを作る者としての、うつわのきわ。
私は、自分の経験を超えた出来事を書けない。
書いたとしても、心のどこかにしこりが残り続ける。
そこにいくらかの冒涜を感じてしまうから。
実際にその出来事を経験したひとへの冒涜だ。
私のからだが感じたことのない思いを記しても、そこに真心はないような気がしてしまう。
この器のふちを超えることが出来ないのは、私の小説を書く者としての力量がそこまでということなのだろう。
あるいは、経験という名の器自体が、じゅうぶんな大きさでないのかもしれない。
私がこころの中で自由に編んだものがたりが、
世に放たれると誰かの真心を冒涜しうる。
誰かを傷つけうる。
そう思うと、いろいろなことがわからなくなる。
*
「私自身の話を書くこと」と、
「抽象的なものを抽象的なまま伝えること」。
それらが、上の問題への解であるようにも思う。
ものがたりを怖れつつも、私はものがたりが好きだ。
私のつくったものがたりで、誰かの感動と愛を生みだすことがなによりも好きだ。
だから、怖れずに誰のことも傷つけずに、ものがたりを書きたい。
そのために、ひとつには、私の生のものがたりを書くこと。
それがひとつのやり方であるように思う。
私が日々の暮らしの中でおもうことやかんがえることを綴っていく。
そこには真心が宿るはずだ。
私のからだとこころで正面から感じたことを記せば、
そのものがたりは、誰かを冒涜することはないのではないか。そう願っている。
もうひとつには、抽象的なものを抽象的なまま伝えること。
私の心にぼんやりと浮かんだものがたりを、「小説」のような具体性の高いものに落とし込むのではなく、「絵」や「詩」のような想像の余白が残る者として描き出す。
そうすれば、「小説の中で起きた架空の出来事」を「実際に経験したひと」を、冒涜することはないのではないか。
ただ、これは少しむずかしい気がする。
「よくわからないけれどなんだか良い」ものを作るには、技量が必要だから。
「よくわからないからよくわからない」ものを作ってしまっては、結局誰の心にも、なにも、残らない。
「この作者が何を意図しているのかはっきりとはわからないけれど、なんとなく良いもののような気がする。この作品は心地が良い。」
そう思ってもらえるものを作っていきたい。
*
いろいろな悲しいことが世の中で起きていて、
自分のことばを放つことについて、さまざまな考えが巡った。
ものがたりを作ること、発信することの暴力性について、最近よく考える。
それでも私はものがたりを作ることが好きだ。好きだとしか言いようがない。
だから、どうしたら暴力性のできるだけ少ないものがたりを作れるか、ずっと悩んでいた。今でも悩んでいる。
少しずつ悩みながら、少しずつ発信していきます。
見守っていただけると嬉しいです。
Mei(メイ/明)
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