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1.ユートピアの蜜

vol.1 意味のある無意味なこと

2019年3月。春の足音が聞こえてくる頃だ。
アメリカにいる僕と彼女は、見慣れた桜を見られず一抹の寂しさを感じながらも、春という無条件に美しい季節に喜びを隠せないでいる。
毎日の電話も、自然と季節の話題が多くなる。

そんな季節のある休日、僕は溜まっていた課題を終わらすために図書館に向かっていた。

日曜日だからであろうか、キャンパス内は閑散としていて、吹き抜ける風が、ひと気のなさを一層後押しする。もう春だというのにいまだ冷たい風に背中を追われつつ、小走りで図書館に駆け込む。入り口の時計を横目で見ると、時刻は午前9時をすぎたところだった。休みの日くらいもっと遅く起きればいいのに、とうそぶく怠惰な自分に主従関係を乗っ取られかけながらも、なんとか盗難防止ゲートを抜けて入館する。


受付を後にし、まだ人がいない図書館をのびのびと歩く。

入り口をはいって右にある階段をのぼる。
よかった。いつもの場所には誰もいない。
そこは三階についてすぐに右へ曲がり、両脇にそり立つ本棚を突き当たりまでまっすぐ歩いた先にある。古びた本のアンティークな香りに包まれた森を抜け、布地の床をまっすぐいくと、目的地までたどり着く。

家のソファくらい落ち着けるようになった椅子に腰掛け、目をこすりながら窓の外を眺める。赤レンガの家と青空しかないが、その空は、海をひっくり返したかのように青い。
見慣れた田舎町の景色には特別感じることもないが、見慣れた青い空は、いつ見ても気分を良くしてくれる。
ああ、なんだって天気のいい日に薄暗くしんとした図書館にいなきゃならないんだ。
と、自分を呪いたくなるが、早急に課題に取り掛かるふりをして少し休憩する。

人気のない図書館でケータイを開く。
彼女はまだ起きていないので、昨夜に交わしたメッセージを少しみて、幸せのかけらを拾い、今日も生きる活力をもらう。

「愛してるよ〇〇」

まだ寝ているであろう彼女に、そうラインする。両手で顔を覆いたくなるような照れ臭い展開だが、付き合いたてのラブラブ高校生カップルのようなことを、僕は大真面目にやっている。遠距離で2年以上付き合っていると、思った時に素直に気持ちを伝える機会が少なくなる。だから思った時に、少しでも気持ちを伝えたくなるのである。

花は散るからこそ美しいというが、彼女の笑顔は僕にその言葉を思い出させる。あの美しい笑顔が脳裏に思い浮かんだ刹那、いつでもどこでも感謝の気持ちを伝えたくなってしまう。感謝の対象は様々である。例えば、今日も好きでいてくれてありがとう、とか。


保存できない言葉は腐ってしまうし、出さない手紙は届かない。



溜まったメッセージに返事を書いた後、見慣れたSNSのアイコンをタッチする。

今日も、色んな人が言論の自由の名の下に、自由を謳歌している。
ツイッターでは名も無い亡霊たちが感情の捌け口を求め輝く星を探し、インスタグラムでは敵意が塗りたくられたコメントが無差別に人の心に刃を立てる。

自由とは責任を伴うものだと感じさせられる。

そんな中、偶然開いたあるインスタグラマーの投稿に目が止まった。

「毎日、愛してるよと伝えるのは、愛してるの意味を軽くしている。」

ぐさりと、どこか心に刺さることを感じながら、その意味を考える。

一理ある、と思った。

そして一抹の不安を感じた。
僕があまりに愛してるというものだから、彼女にもそんなことを感じさせてしまっているのではないだろうか。

スマホから目を離して、少し上を向いてみる。
そこには、僕の思案を何も知らず清々しい顔をした青空がある。

好きってなんだろう、とメンヘラ気味の友人が言っていたことを思い出す。急に誰かと話したくなって友達にラインを送ろうとしたのだが、日本との時差を思い出し、唇を嚙む。今向こうは、夜中の3時だ。

こんな時はタバコを吸いたくなるのかもしれないが、禁煙者の僕はただ窓の外を見つめるほかない。
青い空が、やけに空っぽに見えてきた。

好きな気持ちは相手への行動で示すというが、遠距離だとそれがなんとも難しい。直接会えることが少ないので、手鏡を見ながらリップを塗る彼女を横目に身支度をすることはできないし、楽しみにしていたテラハの途中で幸せそうに寝息をたてる彼女を眺めることもできない。ふとした瞬間に不安げな顔を見せた時、いつもより強く抱きしめることもかなわない。

目に見えない心で繋がっているはずの関係性も、物理的に距離が離れると、色々なことが難しくなる。

一緒の空間にいることで伝えられていることは、案外多い。
虚構のような現実の中で、虚構のようなデジタル空間が彼女との気持ちを交わす場となると、毎朝目覚めることを時々不思議に思うように、彼女と付き合っているという事実の輪郭が、急にぼやけることもある。

五感を使って日頃届けていた愛の言葉も、角ばったデジタル文字と、デジタルに変換されて少し変になった声で伝えることが日常となる。大学のWi-Fiは重いので、カメラをオンにしたライン通話は時間がある時にしかできない。時間がない時にやろうものなら、止まる画面と遅れる声に、苛立ちを隠すことが難しい。

「遠距離恋愛が終わる理由」とググってみたら、「コミュニケーション不足」が検索上位に出てきた。およそ78%のカップルが遠距離で別れるそうだ。

多分、幾多のカップルが「この人とならそんなこと起こるわけない」と思っていたにも関わらず、別れを選択してきたのだろう。実際に遠距離生活を始めてわかったのは、気持ちを伝え合うことが、簡単に聞こえて、いかに難しいかということだ。ただでさえ無機質なデジタル文字での会話は、気をつけていないと相手に不安を抱かせる原因となってしまう。遠距離の二人を結ぶ糸はいつでもピンと張り詰めていて、些細なことでぷつっと切れてしまう。

信用は細部に宿るのである。

僕らの場合、付き合って3ヶ月ほど経ってから、大好きだよ、と言葉にする空気ができた。そこから2ヶ月後に、愛してるよ、と言うようになった。それと同時に、「本当に」とか、「とても」という修飾語をよくつけるようになった。

便利になり続ける世の中では、よくいう言葉はスマホが覚えてくれる。
キーボードを開いた瞬間に、「これが言いたいんでしょ」とばかりに現れ、その文字をタップすることが日常茶飯事になった。

僕が彼女にメッセージを送るときも例外ではない。

僕のスマホの予測候補には、彼女への言葉で溢れている。
しかし僕は、スマホであっても怠慢を許したくない。効率を求めるコミュニケーションを除いて、「人の心を読むのはまだ早い」とアンドロイド端末の期待を裏切りながら、それが示す言葉と同じものを自分の手で全て打ち込む。

「いつもありがとう。愛してるよ」

予測変換に頼らず、やせ細ったデジタル文字を意味でパンパンにするかのように、一つずつキーボードで打ち込んでいく。これらの言葉は文字にするとなんとも心細く、有り余る気持ちを代弁してもらうには、ヒラギノ角ゴのボールドでも頼りない。殴られたら一瞬で粉々になってしまいそうだ。風に吹かれたら、どこかへ飛んでいってしまうに違いない。

しかし僕は、この手間を惜しみたくない。
たとえ「意味のなさそうなこと」でも。
お互い忙しい中で、予測変換を使わずに入力するというのは意外と骨が折れるが、見えない所でも気持ちを届けたい。そう思ってしまう。
予測候補に出る言葉は、使い古されたボロ雑巾ではなく、石炭をくべる度に力強く走る蒸気機関車だと信じたい。よく使うからこそ、毎回意味を考え、想いを込めていたい。

鶴の恩返しで鶴が、繊維一本一本に感謝を込めて織物を織っていたように、一文字一文字に感謝の意と愛を込めて、文章を紡ぎたい。


と、こんなことを思案しながら、ふと窓の外の景色に意識を向けると、
太陽がまもなく真上に来る頃だった。

そうだ今日は寝坊したんだった。ケータイをリュックサックの中に放り投げ、哲学の論文と格闘すべく分厚い専門書を開く。

数時間後、集中が切れかけた時にスマホのバイブ音がメッセージを通知した。

彼女からラインが来ていた。

「おはよう!私も愛してるよ」

よかった。僕の気持ちは届いているみたいだ。

遠距離を続けていたら、いつしか文面を見るだけで何となく彼女の気持ちも表情もわかるようになった。

照れたような顔をした彼女がまぶたの裏に現れ、幸せように笑う。


ああ、甘い。幸せの味がする。

ユートピアの蜜を吸ったら、こんな味がするのだろうか。

          






そんな彼女と別れてから、もうすぐ1年と半年が経とうとしている。

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