ゲイは父性に飢えている?

前々回の記事

前回の記事

前回は愛情バランス説(偏愛)について、そして前々回は母性愛と父性愛についてと立て続けに書いてきましたが、今回は僕自身がゲイである事と父性愛の話を絡めて書いてみたいなと思っています。
今回はタイトルにもある通り、ゲイは父性に飢えているのではないか?という仮説の話になります。
(経験則による分析になるので科学的根拠は期待しないでください)

今までマッチングアプリ等でたくさんのゲイの人と出会ってきましたが、ゲイの人は精神的に異性愛の男性よりも女性的な傾向の人が多いです。
おそらく異性愛者の男性にとってもそのような印象が強いのではないでしょうか。
そしてその精神性からか服装や仕草なども女性的な傾向の人が多いように思います。
(逆に極めて男性的な風貌のゲイについては後ほど説明します)

なぜそのような傾向になるのかをずっと考えていたのですが、前回書いた母性愛と父性愛の記事、そして前々回書いた偏愛の記事が関係してきます。
ゲイの男性は基本的に母親と密着している傾向にあるんじゃないか?とそう思えてきて仕方がないのです。
つまり母親との密着により母親の影響を受けすぎてしまう事が理由で女性的な傾向が強くなるんじゃないか?という仮説です。

母親との密着と言うと、まず第一に母親が過保護や過干渉であるパターンが挙げられます。
また過保護や過干渉ではなくても母親ととても仲が良い人なども母親との密着に該当します。
(母親と仲が良い事が悪いとは言っていません)
以前はこの母親と仲が良い傾向はゲイが女性的な傾向だからこそ仲良くなれるんだという考えでしたが、むしろ逆で母親と仲良しで距離が近い事によって後天的に同性愛者になる場合があるという風に最近は思い始めています。

しかし、この記事の本来のテーマである父性愛に飢えているという話でなぜ第一に母親との関係について話しているのかと言うと、それは偏愛の記事でも書いた「愛情バランス説」が関係しています。
父性愛の欠如というと父親の愛情が不足しているからというのが真っ先に浮かびますが、それだけでは語れないものなのです。
母親の影響ばかり受けすぎるアンバランスな状態(=偏愛)によって父性愛に対しての飢えを感じるという場合は特にゲイの人ではかなり多いケースなんじゃないかと考えています。

その為、ゲイの世界においては父性愛に飢えた人同士で父性愛を求め続けるという需要と供給が一致しない状態が発生しているんじゃないかと感じています。
その現実を考えるとどうしても不毛な気がしてしまってゲイ当事者の自分としては正直なところ非常に苦しいものがあります。
しかしそれが事実ならば事実として受け入れないといけないのかなとそう感じます。

また先ほどゲイの男性は女性的な傾向があると書きましたが、ゲイの中にはむしろ過剰なほどに男らしさを主張するタイプのゲイもいます。
筋肉をつけたり髭を生やしたり短髪や坊主にするなどが分かりやすい例でしょう。
男らしさを主張するゲイの原動力には何パターンかあると考えています。
まず一つは父性愛に飢えたゲイの人たちの中で男らしさを求める人が多く存在する為に、そういう人からモテる為の生存戦略というのがあります。
無論、ゲイの中でもタイプの男性というのは様々ではありますが、筋肉をつけて髭を生やすなどのゴリゴリに男性的なスタンスでいる方がモテという意味ではわりと有利なのかもしれません。
(とはいえ昨今の塩顔ブームによって昔よりはそういう古典的なゲイのイメージは崩れつつあるのかもしれませんが)

また自身の女性的な傾向に対する否定感が原動力となって女性化していく場合も多いでしょう。
何も意識していないと女性的な仕草や喋り方をしがちなゲイがそれをバカにされる事を恐れて無理やり自分を男性に寄せるという流れはわりと頻繁にあるように感じています。

男性が仕草や喋り方が女性的であると学校などで「オカマ」などと揶揄されてイジメられる事が想定されます。
実際にゲイの人でそのように言われてイジメられた事がある人は多いです。
また周りから言われずとも少数派である自分と多数派である異性愛者のズレに自分で気がついてしまい、周りと違うのでおかしいのかもしれないと思って無理やり男性らしさを誇示するという可能性もあり得るでしょう。
また親が息子に対して過剰に男らしさを要求するタイプの場合だと無理やり男らしく振る舞う事になり、それが浸透して大人になっても残っているという可能性も考えられます。

こうした事からもゲイはある意味ではものすごい性別に囚われている存在なのかもしれません。
男らしさとは何か?女らしさとは何か?
そんな事をよく考えるのではないでしょうか。
そしてその上で好きになるのは男性だけで女性を愛する事はできない。
好きになる相手の性別にこだわっている。

ゲイの人が聞くと少しイラつきそうなデリカシーのないいわゆる地雷的な発言ではありますが、バイは両方イケるのでお得感があるみたいな発言も正直なところあながち間違っていないのかなと思う時もあります。
男に囚われるが故にゲイという父性愛飢餓集団でお互いに父性愛を求め合うこの状態を考えると、どうしても異性を好きになれる人が羨ましく感じてしまう時があるのも素直な僕の気持ちです。

今回の記事を書くにあたって僕は父性愛に飢えたゲイが幸せになるにはどうしたらいいのかをずっと考えています。
この飢えはそもそも満たせるものなのか、それとも飢えとうまく付き合って折り合いを付けていくのか。
生きている限りできる限り希望を持ちたいものです。
それは僕自身だけの話ではなく他の多くの人に対しても思います。
しかし希望を持つには絶望的な事実を一度しっかり認識する必要があります。
それこそ前回書いた父性愛的な発想に近いのかもしれませんが、たとえ悪い情報でもそれが事実であればそれを受け入れてその上でどうするか?という発想が大切なんじゃないかなとそう思います。

最後に、この記事を書きながらふと以前書いたこの記事の事を思い出したので載せておきます。

この記事を書いた頃はゲイは先天的になるものであるという風に思っていたので後天的に同性愛や両性愛にあるのは例外的であるかのような書き方をしていますが、この記事の話も母性愛と父性愛の話でわりと説明がつくように思います。
母性も父性も両方不足している人が「誰でもいいから愛して欲しい」という発想になり、性別すらも問わなくなる事によってバイセクシャルになり得るのではないかと思うのです。
番外編的に愛情飢餓が理由の後天的バイセクシャルの話もしてみました。

今の僕に書けるのはとりあえずここまでかなという感じです。
また何か発見があったらこの話の続きをできたらなと思います。


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