ゲイは父性愛飢餓説の総括

最近、頻繁に父性愛について書いていますが、今回はそのまとめの記事にしようと思います。
過去の記事の内容も含めながら自分の思考を整理しつつ、その過程でもっと多くの人にこの記事を通じて父性愛について知ってほしいなと思っています。

なお話の内容上、性別に関する話が多くなります。
僕は男はこうだ、女はこうだと一概に決めつけるつもりはありません。
しかし男性にはこういう傾向がある、女性にはこういう傾向があるという性差は認める必要があるとそう考えています。
また、その特性の差に合わせて男女で役割を分担するのも自然な事として考えています。

そもそも僕が父性愛という単語に着目したのはあるキッカケがありました。
それは先天的になると言われていたゲイが実は父性に飢える事で後天的になるものなのではないかという仮説をとある記事で見かけたことです。
それを見て僕の中でもしかしたらそうなんじゃないか?という興味が湧いてきたのです。
それは僕の母親がある程度まともなのに対して父親が典型的なアダルトチルドレンで精神的に未熟である事からすごく腑に落ちるものがあったのです。

そこで自分が今まで出会ってきたゲイの人たちの話を振り返ったり、周りのゲイの友人たちの家庭環境などを聞いてみたのです。
すると確かに父親との疎遠であったり関係が悪い人はいたのですが、それ以上に浮き彫りになってきたのが母親と密着していたり母親が過干渉や過保護である場合が非常に多いという事でした。

そこで一つ気がついたのが、愛情はバランスが大切なんじゃないか?という事でした。
過保護や過干渉の母親によって母親と密着しすぎる事によって父性が入る隙間がなくなる等、受け取れる愛情のバランスに偏りが生まれるという事です。
このような偏愛によって男性の身体でありながら女性的な振る舞いの人、あるいは女性の身体でありながら男性的な振る舞いの人が後天的に生まれるのではないか、また偏愛によって生じた母性愛飢餓や父性愛飢餓によって性的指向が変化するのではないか?と考えたのです。
つまりゲイの人には強い父性愛飢餓、レズの人には強い母性愛飢餓があるのではないか?という仮説です。

その流れからそもそもまず母性愛とは何なのか、父性愛とは何なのかを考え始めました。
そこで初めに行き着いたのが母性愛は存在そのものの肯定(無条件の肯定)の役割を果たしているという事です。
特に母親は自らの身体から生まれた自分の子供に対して一体感のようなものを覚えます。
母親が成熟した愛情を獲得する事に成功した人間であれば、自然と子供に対しては母性愛が湧いてくるものです。
母性愛は「産む」という行為ができる母親だからこそ湧いてくる感覚なのかもしれません。

しかし父性愛とは何か。
父親の役割とは何だろうか。
そこがなかなか分かりづらく、難しさを感じました。
今もまだ模索中ではありますが、父親に対して使われる大黒柱という言葉があるように父性には人間としてのブレない柱のようなものを持つ役割があるのではないかと考えています。
意思を貫徹する事、ブレない事、筋が通っている事、動じない事というような印象でしょうか。
※詳しくは過去の記事を参考に。

またこの間Twitterでメモ代わりにツイートしたのがこちらになります。

健全な母性=受容、共感、献身
歪んだ母性=過干渉、過保護、情緒不安定
健全な父性=意思の貫徹、理知性、公平性
歪んだ父性=虚栄心、権威主義、暴力性

「歪んだ」の方は精神的に未成熟な人間が親になった時になりがちな行動パターンで、それに対して「健全な」の方は精神的にある程度成熟した人が親になった時の行動パターンです。
僕の考察した母性と父性の機能になぞって分かりやすく羅列したものになります。

そしてさらに前回の記事で追加で書いたのが母性愛は父性愛よりも圧倒的に優先順位が高く、母性愛を受け取れなかった人間に父性愛を正しく受け取る事は難しいという事です。
母性愛を受け取れなかった人間には父性愛を理解する事がそもそも難しいのです。
それは何故でしょうか。

母性愛の役割→優しさ、飴
父性愛の役割→厳しさ、鞭

このように捉えていただけると分かりやすいかと思います。
飴と鞭の原理というのは飴が存在するから鞭に価値が生まれるものです。

母性愛は無条件の肯定、生きているだけで価値があるという愛情です。
その土台がある人間にしかある種の厳しさを伴う父性愛は受け取れないのです。
何故ならば父性愛はある種、条件付きの肯定に近い感覚だからです。

父性は社会性を担うと言われていますが、それはつまり能力を向上する事や成果を出す事にコミットできるかというような役割になります。
しかし母性愛という無条件の肯定の土台がない人は、能力の向上や成果を出す競争の場面においてこれができなければ自分には価値がないという恐怖を感じます。
※詳しくはこちらの記事で解説しています

母性愛飢餓状態の人は自分に価値がないと感じてその価値を埋めるために母性愛の代替品として父性的なものに依存する場合があります。
それはつまりありのままの自分に価値がないので、付加価値を付けようと能力を身に付けたり地位や権力や収入(=父性愛が担う成果や能力)などを求めようとするという事です。
付加価値を身に付ける事自体は悪ではありませんが、母性愛の土台無しにそれを求める事で人は神経症的になり心に余裕を失います。
この状態の人を付加価値依存症と僕のnoteでは名付けています。

以上が最近僕が考えていた事のまとめになります。
ここからは今の僕が感じている感情であったり目に見えない感覚的なものを言語化しながら話を掘り下げていきたいと思います。

今まで書いてきた内容を踏まえると、やはり自分は父性愛に激しく飢えているという事がより明確に感じられるようになりました。
漠然と感じていた自分の中の心細さや何となく頼りない感じが父性愛欠如によるものなんじゃないかと思えてならないのです。
心の奥底に秘めていた人に頼りたいとか甘えたいというような感覚を実感するようになったのです。

ちなみにこれは個人的な感覚ではあるのですが、「褒められたい」という気持ちが母性愛的で、「認められたい」という気持ちが父性愛的という風に感じており、僕自身の感覚として圧倒的に強いのは「褒められたい」よりも「認められたい」という気持ちです。
特に誰に認められたいかと言うと、父性愛が感じられる男性です。

これは単に実力の高い人間に認められたいというような感覚とは少し違います。
たとえば音楽であれば、自分が尊敬するアーティストに自分の音楽を認められたいとかそういうものとはまた別の感覚だと捉えています。
そうではなく、子供が親に自分の努力や成果を認めて欲しいと思うような感覚に近いでしょう。
特に息子が父親に実力を認められたいというような感覚に近いように感じています。

おそらく僕は頼れる大人の男性に対して覚える安心感や背中を押してもらえる心強さみたいなものが幼少期に全く得られなかったんじゃないかと推測しています。
自分の事で精一杯で余裕がなく、自分の快•不快や自分のプライドの維持が最優先で人の心などまるで見ていない毒親からは父性愛など感じられるはずもありません。

そして何より絶望的なのは僕が求めている成熟した父性愛を感じさせてくれるのはおそらく異性愛者の男性であるという事です。
今まで出会ってきた人たちで何人か僕の甘えの欲求を出したくなるような頼りになる男性というのがいましたが、全員もれなく異性愛者でした。

ゲイにとって異性愛者の男性に好意を持つ事にはある種の恐怖があります。
おそらく多くのゲイが過去に異性愛者の男性を好きになって辛い恋をしてきたトラウマのようなものを持っているのではないでしょうか。
このような過去のトラウマ体験や好きになった時点で叶わない事が約束されている現実に「好き」という気持ちを抑圧しがちです。
人が人を好きになるという事は素晴らしい事だと心の底から思っているにも関わらず、何処かに胸が苦しくなるようなしんどさが付き纏うのです。

仮にカミングアウトをしている場合でもそれはあまり変わらないように思います。
自分に自信を持って生きていても、相手の男性が人徳者であっても、何処かに「同性に好きになられても困るよな」という冷静な視点がある為に何処がバツの悪さみたいなものを感じてしまうのです。
それは自分自身が完全なるゲイであり、女性に恋愛感情を持たれた時に結構困ってしまうという感覚もあって異性愛の男性に対しても同じような想像をしてしまうのです。

その為ゲイが最も甘えたいはずの異性愛者の男性に甘えきるのはかなり難しい事でしょう。
そして当然ながら異性愛者とは恋愛関係に至るのは難しいです。
当然ゲイと恋愛をせざるを得なくなるのです。
ところがゲイの人は僕と同じように父性愛飢餓を抱えた人ばかりなように思えるのです。
父性に飢えた者同士で恋愛関係に至っても僕は長続きしないし破綻するのではないかと思っています。

恋愛以外で父性愛を満たす事はできないのか?という発想も僕の中にはありますが、おそらくそれでは不十分なのではないかと感じています。
僕自身父性愛のある男性から恋愛関係以外ではたくさん愛を受け取ってきた事があります。
僕が今現在父性愛とは何かというものを掴みつつある事もある程度父性的な振る舞いを後天的に身に付けられた事も父性愛のある男性と関わっていた事が大きく関係しているでしょう。

しかしそれで父性愛飢餓が満たせたかというと全くと言っていいほど満たせていないのが現状なのです。
抽象的な表現を使うと心に穴が開いているような感覚がどうしても取れないのです。
何か楽しい事や嬉しい事があればその瞬間は嬉しいのですが、その時間が終わった瞬間に何とも言えない心細さや頼りなさが自分の内にあるのを感じてしまうのです。

これは決して母性愛では補えないものだと僕自身は考えています。
そう思うのは僕自身が母性愛的なものにはかなり満たされている感覚があるからです。
自尊心は決して低くないですし、ありのままの自分に価値があると感じられているのです。
自分には自分なりの良さや価値があって愛される権利があると素直にそう思っています。
しかしそれでも心が満たされない気持ちが取れなかったり、自分の中に頼りなさを感じたり、父性的な存在に対しての強烈な甘えの欲求が湧いてくるのです。
表面的には母性愛飢餓も父性愛飢餓も同じ愛情飢餓ではありますが、こうやってたくさん思考して深掘りしていくと母性愛飢餓状態の人と父性愛飢餓状態の人では求めているものが違うんだとそう感じます。

父性愛飢餓の問題、そして特にゲイの人たちの父性愛飢餓の問題については解決策として納得のいくものは未だに浮かんでいません。
ただ成熟した父性愛を持った異性愛者の男性からヒントを得られそうなのと、後天的に自らが父性愛を身につける事自体はできると思うので、そこから自らの飢えを満たしていくにはどうしたら良いのかを考えてみてはいます。

残念ながら今の自分に書けるのはここまでが限界です。
何か思いつき次第またnoteに書かせていただきたいと思います。

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