見出し画像

IB教育と「従来の日本の教育」はだいぶ違うのか? 大差ないのか? ---「異文化感受性発達モデル」の段階による受けとめ方の変化 

※プロフィールに勤務校名を出していますが、
 全ての記事の文責は個人にあります。
 以下、2023年5月の校内向けの通信に書いたものです。

Q:IB教育は、従来の日本の教育とかなり違うものなのですか?

A:IBについて説明するときに、とても答え方に迷う、難しい質問です。
 
 相手の方が、IBについて何をどのように理解しているのか、「従来の日本の教育」とはどの時代のどのような教育のことを指しているのか、IBのどの部分について特に聞きたいのか、などの点をじっくり聞いてから伝えなければ誤解が生じるかもしれません。
 
 ましてや大勢の方々に伝えるとなると、一人ひとりのIBや「従来の日本の教育」のとらえ方はそれぞれバラバラですので、どう答えたものかいつも迷います。

★「異文化感受性発達モデル」のどの段階にいるのか?

 上に書いたように、伝える方も迷いがあるのですが、さらには受け手の方も「言う人によって(先生によっても)IBについて言うことが、なんだか違う気がする」などと、戸惑いを感じることがあるかもしれません。
 
 状況によって「すごく特殊な教育なのでは?と不安に感じてそうだから、安心していただいた方がいいかな」と思って「それほど変わりませんよ」と伝える場合もあるし、その逆もあります。
 また、我々教員の間でも、IBに対する受けとめ方や理解の仕方は異なることもありえます。

ここ数年、IBと関わるときに、「異文化感受性発達モデル」を思い浮かべることがあります。このモデルを提唱したアメリカのコミュニケーション学者ミルトン・ベネットは、理想的なゴールに至るまでの段階をこの図のように示しています。

https://www.alc-education.co.jp/global-news/m-ibunka3.html

  初めは、異文化における「違いの否定」や「違いからの防御」です。例えばどこかに留学して、「○○の人々は自己主張が強い。日本人の和を大切にする文化の方が優れている」などと、異文化を否定し、これまでの自分の正しさを防御する態度です。「自分の文化中心」の考え方からくるものです。
 
  それが最終的には、相手の文化を「受容」したり、積極的に「適応」したり、さらには違いを認めたうえで良いところを「統合」するところまで到達するのが異文化の理想的な受け止め方だというのが、このモデルが示すことです。

   今回注目するのは、「違いの最小化」の段階です。「(ジェスチャーの違いなど)文化の違いは表面的なものであり、人間としては根本的・本質的にいっしょである」ことを強調する段階です。
   結局は、違いや多様性を充分認められているわけではないので、このモデルでは「自分の文化中心」の段階に含まれています

 IB教育というのも、日本の学校にとってはやはり異文化です。
 
初めは「概念理解とか探究とかよくわからないし、時間的に無駄では? 日本の教育はしっかりと基礎基本を身につけさせて成果をあげてきた」などと、異文化を否定し、これまでの自分の正しさを防御する態度も当然出てきます。
 「IBはよく分からん」と、できるだけ関わらないようにするということもあります。少しこわい、面倒くさいということで海外に行こうとはしないのと似ているかもしれません。
 そういう段階を経て、最終的には、IBを「受容」したり、積極的に「適応」したり、さらには違いを認めたうえで日本の教育とIB教育の良さを「統合」するところまで到達するのが理想的なゴールということになります。
 
 そして、途中で経験することが多いのが、「違いの最小化」の段階です。私も、こういうふうに感じていることもありました。IBの「概念理解」とか「グローバルな文脈」とかいうものは、日本の教育の中でも「ものの見方・考え方」など別のことばで実践されてきており、「違いはあくまで表面的なものであり、根本的・本質的にいっしょである」と。
 
 しかし、実際にIBの枠組みで授業や評価を経験して、さらに理解が進むと、従来の日本の教育との違いや、日本の教育に足りないところを「受容」するようにはなりました。これからさらに「適応」・「統合」を目指しているところです。

 このように、「IBという異文化に対して、どの段階にいるか?」によっても、「IB教育は、従来の日本の教育とかなり違うものなのか?」に対する答え方は変わります。
 「自分はどの段階か?」、「話している相手はどの段階か?」などを考えると、様々な伝え方を受け止めやすくなるかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?