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缶ジュースの反響(読書と「ローベルト・ヴァルザー」)

缶ジュースを飲んでいた。三分の一程度残っている。少し飲んで息を吐くと、吐いた息の音が反響して返ってくる。その音はくぐもっていて、コーラスのエフェクターをかけた様な音がしており、一度目の反響の後ろ足に重なる様に二度目の反響がある。一度目の反響は自分の息遣いだと分かるのだが、二度目の反響は他人の息遣いに感じる。不思議なものだ。科学的根拠云々は分からないが、自分が聞いている自分の声と他人が聞いている自分の声とでは聞こえ方が全然違うということと関連はしているのだろうか。また、他人の息遣いとは言え、いびきの様な不快なものではない。むしろ自分の息遣いに合わせた反響のリズムが心地よいとさえ感じる。もし、この缶の中に「なにか」が住んでいて、その「なにか」が私の息遣いに合わせて会話をする様に息遣いを返してくれているのであれば私はその「なにか」と私史上唯一無二の親友になることができるだろう。そう思えるぐらいに心地がよいリズムだ。(なにを言っているのやら。)

私の大好きな本の中に「ローベルト・ヴァルザー」の「ヤーコプ・フォン・グンテン」という本がある。私はこの本をいつもどこまで読んだか忘れてしまう。栞を挟めばよいなどという野暮な話はなしだ。何故そうなるのかと言えば、この本は大体が「ヤーコプ・フォン・グンテン」という少年の一人語りだからである。どこのページを開いてもこの少年が友達や兄について語ったり、街に出て考えたりしていて、物語もあるにはあるが個人的にはあまり重要ではないからだ。

では、なぜこの本を読むのか。

書評や帯などでよく見かける、「主人公と会話をしている様な」という謳い文句があるが、正直それらのほとんどは物語が牽引していく上での主人公の言動に共感ができるということを指している様に聞こえる。勿論それらの作品に是非がある訳ではないのだが、「ヤーコプ・フォン・グンテン」においてはその謳い文句をそっくりそのまま地で行くのである。というのは、いつどこから読んだとしても、読み始めれば隣に主人公が現れ、自分に向かって話を始めるからである。私小説や自己啓発本の様になにか目的や発見を強いられる訳でもない、他愛もない、けれども鋭い観察眼で興味深く飽くことのない話をだ。(決して私小説や自己啓発本をけなしている訳ではない。むしろ、好きである。)

この本に触れていると、これは果たして読書なのだろうか?そう思えることがある。誇張表現かもしれないが、実際に隣に少年がいて会話をしている感覚なのである。子供の時を思い出して欲しい。例えば、「銀河鉄道の夜」の「共感」として自分がそこにいるのではなく、自分が「その場」にいるあの感覚。お分かり頂けるだろうか。「ヤーコプ・フォン・グンテン」ではそれが逆転し、少年がこちらの世界に来て、私は着の身着のままで彼と話をしているのである。本を開くたび、「また同じ話をしてるな。こいつは」と思い、「その話は聞いたことがないな」などと相槌をうつ。会話を終えて(本を閉じて)外に出れば「そういえばあいつはあんなこと言ってたな」「この景色を見たらこんなこと考えるだろうな」と思う。本を閉じていても本の中の人物や生物達が私の中に根付いていること。それは読書の幅に収まらず、彼らが生きていることが私を生かす糧になっているのだ。

私の呼吸の中にも様々な人物、生物たちが息づいている。缶の中から帰ってきたのはそんな中の一つの息遣いだったのかもしれない。そんなことを思い、感謝の意をこめて

「これからもなにかとお世話になると思います。よろしくお願いします」

と缶の中に投げかけてみたが返事はあらず。これにて失敬。

2022/09/26 一井 重点


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