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交わらない視線(ぬいぐるみと路上観察学)

散歩がてらに寄ったショッピングセンターをぐるぐると見て回る。近場の散歩は小銭しか持ち歩かないため特に何か購入することもない。店内はクリスマスが近づいてきているせいか、ツリーを店頭に飾っているアパレルショップ、モールで彩られたケーキ屋等どこもかしこも煌びやかな雰囲気である。

そんな中を一人で歩いていると、ふと複数の視線を背中に感じた。誰かが私の猫背に向かって、ひそひそ話しでもしているのだろうか。いやいや、クリスマス近しだからといって劣等感に溺れることなどないのだ。堂々と歩き、堂々と振り返ればよろし。見ればそこには階段状になった棚にずらっと並べられたぬいぐるみ達がいた。

「なんだぬいぐるみか…」と安心し心の中で額を拭う。ではお返しと言ってはなんだが、私もまたぬいぐるみ達と同様に彼(彼女)らを眺め返してみる事にしよう。幸いにも棚の前の通路にはベンチがあり、そこから眺めていても違和感はない。

さて、ベンチに座り棚の全景を眺めると、彼らは一様に視線を目の前に集中させて店頭を通る人々を眺めている。彼らの表情を見ていくと実に様々な表情で溢れている。笑顔のものから、寂しそうなもの、「では、俺が追い剥ぎをしようと恨むまいな」というような表情のものもある。たまに後ろを向いているものもいるが、おそらく彼は反射を利用して店頭を見つめるツワモノであろう。または、恥ずかしがり屋というキャラによって媚びを売っているのか、「顔は見せたくない、内面を見てくれ」という反発心の表れなのか。どちらにせよ、彼らは表情や向きも様々であるが、しかし一直線に目の前を見つめていることには変わりがない。

と、そこまで考えたところで私は彼らを見つめるのに早くも飽きてしまった。おそらく彼らも私を見つめるのに飽きているだろう。というか、店頭を見つめるのにも飽き飽きしているであろう。みんな微妙な表情に見えてきた。というかなんなら一点を見つめ続けることの大変さというか辛さみたいなものを感じてきてしまった。彼らの場合それが比喩でないから余計辛いであろう。なんてこった。

私が彼らにしてやれることはないのか…

!!!

ありました。そうです。「トマソン」を、というか「路上観察学」を教えればいいんです。

「路上観察学」は、ものすごく簡単に例えれば「交通量調査」の様なことを街中で見つけたいろんなものを観察してやってみよう的なことで、「トマソン」探しもその中に含まれている。「トマソン」は「用途に対して使えないまま純粋にそれだけが存在しているもの」例えば「どこにも上がれない階段」=「純粋階段」みたいなもので、基準や種類もあるといえばあるが、ここでは割愛させて頂きたい。

「トマソン」は探すのに移動が必要であるが、「観察」のみであれば彼らの住んでいる棚から視点を動かさずとも楽しめるのではないか。例えば行き交う人が紙くずをゴミ箱に捨てる時のその丸め方(折り方)の種類を数える等…ニッチではあるがどうだろう。楽しそうではないですか。あぁ教えてあげたい…

ふとまた視線を感じた。今度は人であった。ぬいぐるみを長々と眺めていた私を奇異な目で見ている。

私はぬいぐるみ達から視線を外し、ますます丸くなっていた猫背をピンと伸ばし、軽く会釈をすると早足で歩き出した。

振り返りはしなかったが「お互いに頑張ろう」と心の中で彼らに語りかけた。そして走って帰った。

2022/11/21  一井 重点


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