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生活の穴(「ジョン・ケージ」と「あわい」)

夜半散歩に出て、「生活の穴」を見つける。(他の表現をするのであれば「生活の端」とか「生活の隅」になるだろう。)彼(彼女)らは見つけるとすぐに輪郭を溶かしていなくなってしまうので、久々に見つけられたのは幸運だったと言えよう。余韻がまだ残っている。
従って今回は「生活の穴」の採集方法である。キャッチ&リリースをお約束とし、ついてきてほしい。(寂しいので。)

まず、重要なのが「ジョン・ケージ」の「4分33秒」である。
この楽曲は「4分33秒の間一切演奏をしない楽曲」であり、この間聴衆は演奏ではなく「聴衆のざわめき」を「音楽」として聴く事になる。
様々な批評等で持ち出されるこの曲であるが、簡単にまとめれば「音楽でない音楽」であり、「最も音楽的である音楽」とも言える。
つまり、この楽曲においての音楽を聴くという行為には、「意識的に演奏された音楽」を意識的に聴くのではなく、「無意識下において出される音の連なり」を意識的に「音楽」として聴くという反転現象が起こされているということなのである。
これは、時間や場所に限定されず、常に無意識下で音楽は鳴らされ、意識をそちらに向ければ音楽は未来永劫鳴らされているという「音楽である」「音楽でない」の、(日本風に言えば)「あわい」を切りとった、「ジョン・ケージ」からのメッセージなのである。(と、私は解釈している。)

足早になってしまったが、ご理解頂けただろうか。

それでは実際に「音楽」を聴いてみよう。いや、既に聴こえているはずだ。



本筋に戻り、今度はそれらを、とりわけ何も考えずに出た散歩等において、見る風景に投影してみるのである。(決してスピリチュアルな事が言いたいわけではない。)普段「風景」や「景色」と呼ばれるものを私達は見ていて、例えば、綺麗な(逆もしかり)空や水、建物等を意識はせずとも、恐らく視点は無意識にそういったものを見にいくのである。これらを「意識的に演奏された音楽」とし、その中にある「見えているはずなのに認知できていないもの」を意識的に拾い上げていくのである。「無意識下において出される音の連なり」を「音楽」として聴くように。

例えば、白線の消えかかった横断歩道、日焼けしたポスター、錆び付いた遊具…

パッケージングされた煌びやかな「風景」や「景色」の中に、人がそこにいたというにはとても弱々しく、意識しなければ気づかない痕跡があるのだ。それらは自分の視点の「意識」と「無意識」の間、つまり「あわい」にずっと存在し続けていて、その「あわい」を私は「生活の穴」と呼んでいるのである。



どうだろう?見つけられただろうか?

「生活の穴」が纏っているイメージは、砂粒ぐらいの大きさしかなく、特定の場所に付随するノスタルジーの様に声高に主張してくる事もなければ、電灯にまとわりついている小さな羽虫の群れの様な力強さも持ち合わせてはいない。しかし、それでも確かに存在し続けている。

そんな「生活の穴」=「あわい」を見つめることに私は心底惚れているのである。

2022/08/29 一井 重点

PS. 新種を見つけたら是非教えてください。(寂しいので。笑)

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