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「モモ」と読書の気負い

草刈機の音が響いて、草の香りが鼻腔をくすぐる。良い匂いだ。私は、ミヒャエル・エンデ「モモ」のストーリー半ば、ページを開いたままテーブルに置いて外へと出てきた。帰ったら続きを読むかもしれないし、読まないかもしれない。
 
読書に対する気負いについて話したい。それは例えば「本は最初から最後まできっちり読まないといけない」だとか「今読んでいる本を読み終えるまで次の本を読んではいけない」というような、読書のハードルを上げるような気負いの事についてである。
 
頭の中の世界というのはいつも繋がっている。一人の人間なのだから、そこにどういった情報が入っていようが、それらはいつも繋がって、一つの世界を形成しているはずである。
 
その世界について考える際に、これは「本」「物語」「知識」である、とあまりに区別して頭の中においてしまうと世界が途切れてしまう気がするのである。特に昨今流行りの何にでも合理的に取り組もう、考えようという姿勢がそういった風潮をより強めていると思える。
 
では、どうすれば良いのか。
 
情報の取捨選択を行う際に、今よりもう少しだけ現実に近い階層に、これは「本」だから「物語」だからと突き放した区別をせずに、今歩いている場所や街にそういったものが実際に存在していると思って欲しいのだ。無論、倒錯的になれという意味ではない。
 
例えば、私が先程まで読んでいた「モモ」は時間泥棒に追われ、亀と逃げているところである。私はそこで本を読むのをやめて外へと出てきた訳だが、私がこうして外を歩いている間、モモはどうしているだろうと考えるのだ。リアルタイムで言えば今も時間泥棒から逃げているだろうが、先程の草の匂いを嗅いだらモモはどうするだろう、踊るだろうか、というように。
 
こういった事は皆子供のうちはできていたのに、いつの間にかできなくなったのは何故だろうか。
 
それはきっと、大人になって見知った様々な恐怖の弊害により、あまりに情報を合理的に区別しすぎる様になったからであろう。勿論しっかりと区別しなければならない情報はある。しかし、無意識のうちに行われる過剰な防衛(情報の選別)は、読書に限らず様々な事に没頭する意識を削いている気がするのである。
 
要約すれば、大人だからといって合理的に物事を考えすぎず、もっと読書を楽しみ、没頭して欲しいのだ。「この本からはこの情報を確実に手にいれよう」だとか「この物語を全て把握しよう」だとか「この本を読むことで何かを得たい」だとかそんな事を考えて読書して欲しくはないのだ。
 
現に私は「モモ」と西村賢太「苦役列車」を併読していた為、モモと草の匂いを嗅いで踊った後で、川の方へ行き貫多と散歩して飲みに行きたい、などというとてもアンバランスな世界を楽しんでいた。どちらの本もまだ読み終わってはいないので、モモは追われているまま、貫多は悶々としてタオルケットに包っているままである。続きは読むか読まないか分からない。けれどもそれで良いと思う。私の頭の中ではそのまま物語が続いているし、時折他の話とまざって主人公達が実際の結末とは違った話になっている事もありえるが、しかし、そういう風に現実と物語とが同調し合って流れていく心地よさが私は好きなのだから。合理的に動きすぎるのではなく、そういった感覚が好きだからそうする。そういう風に本との間に自信が介在することによって私は私を見いだせている気がするのだ。これは「物語」だけでなく、他の「知識」を得る際にも同様の事が言える。これは「本」であるからと俯瞰して突き放してしまう読み方は一番退屈であろうと私には思える。
 
「失敗は成功のもと」という言葉があるが、今の時代においては、その言葉ですら私には少し気負っている様に聞こえてしまう。揚げ足を取るようだが、成功しなければならないという責任を生んでしまうからである。
 
私は失敗は失敗で良いし、無駄は無駄で良いと思う。大切なのは、合理的に糧にする事を考える事ではなく、失敗や無駄を含めてそういった物事を愛せるかどうかであるかと思える。失敗を重ねて、最後まで成功しなかった物事を、嘲笑はもっての外、憐れむことが私は好きではない。私はその当人ではないから、当人が満足していたのか、悔やんでいたのかは勿論分からない。しかし、その過程や姿勢には嫉妬であれ憤怒であれどういった形であれ確実に愛があったはずだ。
 
巷では成功体験より失敗体験の方がより印象に残り、思い出すことも多いと言われている。しかし、その失敗さえそのまま飲みこんで愛する器があれば、失敗を成功のもとにする必要すらなくなる。というか、そもそも失敗を成功のもとにしようとするから余計に気負ってしまうのだ。向上心がないという事ではない。失敗や無駄という事に対しての見方を変えるということだ。
 
…。
 
なんだか薄い自己啓発の様になってしまった。反省である。そうそう、読書の話から少々ずれてしまったが、最後は簡潔にまとめよう。要は合理的になりすぎず、自分が好きな感覚を大事にすれば良いということなのだ。「タイムパフォーマンス」なんて、それこそ「モモ」に出てくる「時間泥棒」そのものである。忘れてしまおう。
 
 
さぁ、と言う訳で私は帰ったらどうするのか。昼寝をするのである。みなさんもどうだろう。いろんな作業やら仕事やら辞めてしまって寝たかったら寝てしまってもいんではないだろうか。そして、そんな自分も愛してあげれば良いのではないだろうか。
 
 
深夜まで寝てしまっても良いのである。それで、ふと目が覚めて、何か夢を見ていた様な浮遊感の中で
 
出てくる言葉や感覚が私は好きなのだから。
 
ではでは、おやすみなさい。

2023/05/23 一井 重点


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