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いいエッセイは、「女性」にしか書けませんか?


「是非、うちでエッセイを書きませんか?」


わたしは正真正銘の「女性」ではなかった。

これはアンチテーゼにも見える。一年程前の話だが、わたしはとあるメディアにエッセイを応募していた。


「遅かったんだよ」

自分でもそんな気がしていた。

それも分かったつもりでいたけれど、都合のいいときだけわたしはその末路をどこか見えないところへ仕舞い込んでいた。

それでも、出来るんじゃないかと思った。人は夢を見始めた瞬間だけが気持ちよかったりする。その気持ちよさのせいでわたしたちは叶わぬ夢を思い描き、そして滑稽なほどに挫折する未来を抱きしめている。

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もうわたし自身、忘れていた。

誤解を恐れず、想いをそのままに書けば、そのメディアを自分の人生から遠ざけていた。SNSのフォローは外し、自分の「空」を探していた。羽があろうと飛び立てない木に縋り、出ない蜜を今か今かと待つのは言いようのない苦しさだけが伸びる。とはいえ当時は「ここだったら、わたしの言葉の色も合うかもしれない」などとつぶやきながら、ネットの海に潜っては溺れていた。


ひたすらメディアに文章を送っていた時期がある。それが先ほど言った一年程前のこと。今よりももっと未熟で、わたしが知らないだけで、書くことを仕事に出来るメディアは沢山あった。けれど、わたしが応募してみようと思うメディアはどこもかしこも応募条件に"女性"という文字があったのだ。


わたしが「女性」になる必要なんてない。

そんな姿は誰も求めていなければ、わたしに頼まなくとも、そもそもより"美しい"人間が存在しているのだ。わざわざわたしを選んで、わたしがその場所で書こうとする必要なんてなかったのだ。

弱気になっているわけではない。ただ、分けられてしまう。そして力を持っていない自分に、悔しさとはまた違う、突き抜けるような風に心臓を綺麗に攫われてしまった気がした。


そんな感情を携え、応募し続けていた。結果、どのメディアもわたしは断られてしまった。読んですらもらえなかったのだ。

わたしが「女性」ではなくても採用される可能性はありますか?と訊いたとき、返ってきた内容は、こんなものが多かった。


女性のみの応募となっております。
心が女性でも、認められないんです。
貴方は男性なので、資格がありません。


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「女性」の募集だと、書いてあったじゃないか。何をやっているのだろう。きっとわたしは、どこかで来ると思っていた。


「いえ、男性の方でも適性があれば採用させていただきます」


そんな言葉をきっと待っていたし、そんな言葉がきて当たり前だと思っていたのだ。わたしは自分を履き違えていた。ハイヒールなんて履けるはずなかったのに、どこかで履いていいと思っていたのだ。


目を思い切り瞑る。

わたしは土の被った黒いサンダルを履いてその日もコンビニで安い弁当を買っていた。そのとき初めて涙腺が動く。それすらも自分は時間を無駄にしていると思い、また自分がきらいになった。

でも、"聞いてみなければわからないこと"だったはずだともうひとりの自分が励ましてくれた気がした。けれど、書いてあったんだから聞かなくても分かっていたことじゃないかと殴りかかってくる自分ももうひとりいた。

食べた弁当の味はなかった。
そしてわたしの言葉からも味がしなくなっていた。

自分が女性用の化粧室に入るくらい、それは許されることではなかったのだろうか。別にわたしはそこに入りたかったわけではなかった。桃色の壁に囲まれて、鏡の前でわたしはただ笑顔になりたかっただけだったのに——。



誰だって生きる道を選ぶとき、それを認めてくれる他者が必要だったりするのだろうか。

そんなことを考えながらまた、文章を書いている。とはいえ、一年経ってわたしは変わった。そんな中、数日前、わたしを断ったメディアからメッセージが届いた。


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