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「しまい」の大切さ~呼吸をしているような日常生活~

こんにちは!明日美です。

先週、実家に帰省していたのですが、毎年2月ともなれば、毎日雪かき!となる時期なのですが、今年はまったく雪が降らずじまい。
雪が無いからこそ観られる美しい景色に出逢うこともできました。が一方で、近所の立ち寄り温泉に行くと、地元の人が農作物を心配している声が聴こえてきました。この土地では、雪かきの大変さと、大地の恵みというのは、切っても切り離せない関係なのだなぁと改めて思いました。地元の人たちの生活の積み重ね、心を配って、土を耕す人たち一人ひとりの時間を想うと、やっぱり「お米」や「お野菜」がそれまでと違って見えてくるものです。

そして、雄大な景色に囲まれていると、PCや携帯を全く見なくなるという自分にも気づき、なんとも面白かったです。目も休まるし、静かな土地は、耳も休まりますね。ありがたいことです。

少しだけ積もってすぐ溶けた雪景色


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さてさて、今日は、「しまい」ということについて、最近気づいたこと、感じたことを書いていきたいと思います。

先日、この数年取り組んできたことについて、ある方と「打ち上げ」をしてきました。ここまでの頑張りに区切りをつけ、新たな一歩を踏み出すために。
たしかに、数年前に始めたことにモヤモヤや引っかかることが増え、このまま進んでいくことに気乗りがしていなかったのです。
なので、相手の方が「打ち上げ」の機会を設け、ここまでの取り組みを一度「おしまい」にしてくださり、区切りをつけてくださったのですね。

そうしたら、驚くほど身軽になったというか、感覚が変わったのですね。それは、ただ「終わる」ということではなかったのです。
「しまう」ことで、次が始まるというより、「生まれる」ことがあらかじめ予見されているような感覚。

「しまい」という言葉には、日頃から馴染みがありました。というのも、茶道の点前において、茶を点て、客にお出しして、服した茶碗が返ってきた後から、「しまい」の道程に入っていくのです。

師匠からは、「潮が満ちるように茶室に入り点前をはじめ、潮が引くようにスーッとしまっていく」のだとお話してもらっていました。

点前では、お茶を点てるまでが「陽」であるなら、「しまい」は「陰」のように、セットになっているのです。最初に道具を置いた位置に、また道具が戻っていくように、カチッとはまるように美しい行程なのです。

それが身に沁みていくにつれ、「しまい」の大切さを想うようになっていきました。

だから、此度、茶の湯の道とはまた別に、生活の中で「しまい」の感覚に出逢って、こういうことだったのかとさらに腑に落ちたのです。

はじめたことは、しまうときが来る。

星が生まれ、また死んでいくように。呼吸するかのように。
虚空に還っていくように。次の「生」が漂っている。

私の場合は、日常生活の中にも「しまう」という意識が顕れてきているなぁと感じていました。
料理をし、食事をし、洗い物をし、水回りをその時の自分ができる限りに整える。それは、ある意味、その日を「しまう」ということなのだと思う。次の生活の始まりでもある。
そう思うと、日々の暮らしが呼吸をしているかのように、心地よくなる。
思えば、「ものをしまう」というときは、次に使うことを前提にしているよなぁ。

一方で、「終わり」という言葉にも言及しておきたいと思う。
「終わり」という言葉は、なんというのだろう。私にとって、「断つ」という感覚を含むので、「断つ」ということが最善であると感じたときには、しっかり「終わり」にすることが必要なんだと思う。例えば、次の生活に繋げないために、自分で終わりにしたいことがあるのなら、やっぱり自分はそれを「終わり」にすると決めなくてはならないのだと思う。
それは、自分がしてきたこと、世界に顕れていることを平らかに観る勇気と、行動に移すエネルギーや勇気が必要なことも多いのだけれど。

話がズレてしまうので、その話はまた今度。

今回、ほんとうに大切だなと思ったことは、「しまう」という事を意識し、行動することで、次の「はじまり・生」を意識できるということ。
ついついダラダラと流されていってしまう傾向がある自分だからこその、意図して「しまう」ということが、必要に応じて発動できたらいいのかなと思っている。

自分が目の前の物事に対して、一体どうしたいのか?
「しまう」という選択肢も増えたなぁと思うし、ついで「終わり」という選択肢も意図して選択できそうかなと思う。

備忘録として。

本日も最後まで読んでくださってありがとう。
素敵な一日を🌈

明日美




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