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短編小説_卒業写真(文芸誌/世瞬 Vol.1寄稿作品)


この作品は出版社・世瞬舎様の文芸誌『世瞬 Vol.1』に寄稿させて頂いた作品です。文芸誌には他4名の作家さんの小説・コラムが掲載されてます。ご興味のあるかたは以下のリンクから世瞬舎様の詳細ページを御覧ください。


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小さな窓の中で笑っているきみが、一番かっこいいと思う。


程よく重みのある卒業アルバムを膝に乗せ、角に指をかけると自然と三年二組のページで止まった。一面に並んだ小窓にはかつてのクラスメイトの顔と、わたしの顔も写っていたけど、それらを感慨深く眺めることはなかった。荒井由実が歌うみたいにその中のたったひとつ、きみだけが、わたしにとって卒業アルバムを開く意味だった。

仕事で酷使した足をベッドに投げ出すと無意識に大きく息を吐いていた。向かい側の窓からは冷たい雨の気配が忍び込んでくる。

彼を囲う長方形を眺める。わざとらしい真っ青な背景にぎこちなく口角を上げた頬、まだ幼い眉の形、緊張で力の入った細い肩。好きだった。言えなかったけれど、誰よりも好きだった。

革張りのアルバムに押しつぶされ、太ももに跡がついていた。折り目正しい直角の赤い線。痛むたびに懐かしい赤い線。それを撫でていたら、ふと、空っぽの部屋に煙草の香りが混じった気がした。苦さが肺から心臓へめぐり、わたしは天井を仰いだ。大げさに時間をかけてまばたきをすると、あっという間に光が滲んだ。


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セーラー服に袖を通して二年目のことだ。風のうわさで、きみに彼女ができたと聞いた。相手は同じクラスの女の子だった。

午後の陽光が忙しなく降る教室で、友達とおしゃべりするふりをしながらきみとその彼女を見ていた。思春期の恋人同士が堂々と一緒にいることは少なかったけど、時々席を挟んだふたりの唇が音もなく同じ形に動くのを視界の端で捉えた。真似をして自分の唇も動かしてみるけど、ふたりみたいに意味を持った形にはならなかった。

ひとり足早に帰宅し、自室にこもっていると遠慮のないノックとともに姉が入ってきた。

「あんた、泣いてんの。なんかあった?」

勝手に開けないでよと怒りたかったけど、素直に好きなひとに彼女ができたと話した。年の離れた大学生の姉は失恋を慰めるのにちょうど良いと思ったが、姉は「なんだ、そんなことか」と言ってベッドに腰掛け、わざとシーツをぐしゃぐしゃにするように足を組んだ。

「泣け泣け。子どもの恋なんて泣いたらすぐ治っちゃうんだから」
「おとなの恋はそうじゃないの?」
「跡が残るのよ、いつまでもね。雨の日は時々傷んだりするの」

姉はわたしではなく、窓の外を眺めていた。夕陽が縁取る窓枠に降り止んだ雨の雫が落ちる。姉の顔には青白い影が入り、瞳が少し濡れていた。

泣いたあとの頭は真っ白で、やけに素直な決意が湧いて出た。これから先、この恋よりも痛いものが待っているなら、わたしはずっと今のままでいい。きみを好きなままでいい。新しい恋なんていらない。おまじないをかけるみたいに小声で繰り返しながら、その日は早くに眠った。つぶやいた願いは夜十時の空へ昇り、雲を抜け、月へ届く。高校生になっても、大学生になっても、新しい恋は訪れなかった。


「すごいよねぇ、学生時代に付き合ってた彼氏と結婚しちゃうなんて。わたしだったら考えられない」

注文したコーヒーを啜りながら彼女は苦々しげに言った。おとなの恋は訪れなくとも、交友関係は歳に応じて付いては離れてを繰り返す。社会人になり、中学時代から付き合いのある友人は彼女ひとりになっていた。

アイスコーヒーの苦味を舌で擦っていると、彼女は、左手の薬指に指輪のあるひとと付き合っていると打ち明けた。そして悪びれる様子もなく付け足す。

「あの人がつけてる傷だらけのステンレスが光るたびにね、わたしの勝ちよって、そう思うの」

綺麗に三日月を描いた唇は、吐き出された台詞とは裏腹に青白く潤んでいる。それはおとなの恋を語ったあの日の姉に少し似ていた。姉も、そういう恋をしていたのだろうか。彼女の傷跡も、雨の日は時々痛んだりするのだろうか。

周囲の友だちは着々とおとなになっていくけど、わたしには関係がなかった。


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卒業アルバムを開く。光沢のある紙の上で、痛みが、静かに笑っている。


その瞬間は、突然訪れた。

仕事帰りの駅前できみを見つけた。見つけた、とはっきりわかったのは、誰もが足早にすれ違う中できみだけがピンで留めたように佇んでいたせいだった。あの頃の面影が暮れなずむ街の夕闇に浮かび上がる。息の仕方も忘れそうだった。

なんと声をかけたらいいだろう、こんにちは、ひさしぶり、元気だった? 擦り切れるほど卒業アルバムを開いていたのに、きみに会ったら何を言うか、まるで考えがなかった。そもそもわたしのことなど忘れているんじゃないだろうか。怪訝そうに眉根を寄せる顔を想像してみたが歩みは止まらない。ねぇ、わたし、わたしは、


息をついたきみの肩がゆるやかに上下する。あてもなく天井を仰ぎ、まつげが瞬くのがやけにくっきりとわかった。また肩が上下したかと思うと、きみの唇から薄雲のような煙がゆっくりと吐き出されていった。わたしはそれを透明な喫煙所の壁越しに見ていた。それが再会の正しい距離感だと示すように。

「おまたせ。帰ろう」

きみの横顔に見知らぬ女性が重なった。その人は軽く握った拳でノックするように壁を叩き、見返ったきみと二言、三言交わして長い薄茶色の髪をふるわせる。雑踏にまぎれて途切れ途切れになった世界で、ふたりの唇が動く。「帰ろう」。

そうだ、あの日の教室で、きみと彼女が口にした言葉はきっと「一緒に帰ろう」だった。密やかな放課後の約束、プールサイドのようなきらめき。わたしはそれを見ていた。見ているだけだった。今も、わたしだけが蚊帳の外で眺めている。きみと、あの頃とは別の彼女と、ふたりの指に輝くまだよどみのない約束の証を。

若い夫婦の影が消えたあと、虫の息をした吸い殻がジリジリと減っていく。


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小さな窓の中で笑っているきみが、一番かっこいいと思う。


部屋の出窓には細かい雨粒が吹き込み、ひっそりと床板を湿らせている。わたしはベッドに寝そべったまま動けずにいた。膝に乗せた重みが冴え冴えと身体に染み込んでくる。

卒業写真のきみが一番かっこいいなんて、嘘だ。きみとわたしの間に思い出を交換し合えるような関係がなかっただけ。天井を仰ぐと、鮮明な輪郭を持ったきみの肩が浮かび、続けて削いだような頬が、こぼれるような笑みが浮かんだ。今までで一番かっこよかった。

消滅したあとの星が光を残すように、燃え殻になったセブンスターが苦く香るように、叶わなかった恋はまだ胸にいる。思い出が擦り切れたあとも、まだ胸にいるのに。傷口を開ければ赤い血が流れ、当然のように変わってしまったきみを恨めしく見つめていた。


今夜は雨が降っている。終わった季節が思い出したように痛んで、これはおとなの恋だったのだ、と思った。もう痛み以外の何物にもなれないけど、それでも少しの間だけ誇らしかった。

化粧を落としたあとの青白く濡れた顔を枕に埋め、おまじないをかけるみたいに小声でつぶやく。


恋がしたい。


深夜三時の弾かれるような曇天を抜けて月へと届くように、脈打つ胸を抑えて繰り返していた。



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