東京駅発、夜行バスの恋人。
行儀よく整列した大型バスが一台、また一台と光を連れて去っていくのを横目に、冷たい息を吐いた。
夏の蒸し暑い季節だというのに体がこわばって動かしづらい。バスの待機所に差し込む黄色いネオンライトが細い糸になって絡んだみたいに、出発を前にして緊張が押し寄せていた。
昔からそうだった、可笑しなタイミングで緊張してしまう。大学の研究発表でマイクを置いた瞬間、敬愛するアーティストのライブのMC中、はじめて女の子とホテルに入った帰りの始発の電車の中。
みんな少し早かったり、少し遅かったりして、掴みきれない緊張の糸に一人で四苦八苦することも多い。
今夜だって、そうだ。陽介に会うまでにはまだ何時間もかかる。
人のまばらな列には統一性がなく、同じ目的地へ向かう夜行バスを待っているという以外に共通点が見つけられなかった。小型のハイエースでも入り切りそうな人数はそれぞれに暇を持て余しながら、今夜の寝床の訪れを待っている。
僕は右耳だけにつけたイヤホンをいじりながら、もう片方の手では陽介への返事を打ち込む。「乗ったか?」「もうすぐ乗るよ」「気をつけてこいよ」と矢継ぎ早に言葉が流れていって、明日という一日のことを実感してしまったのかもしれない。
解けない緊張の糸が東京駅のビル街に伸びていき、このバスに乗らなければ明日も来ないのか、とぼんやり考えていた。
『仙台行き。仙台行き。ご利用のお客様は大きなお荷物をトランクにお預けの上、ご乗車ください』
背中の大きなリュックを預けるかどうか迷ったが、夜行バスをともにする人の少なそうな様子を見て持ったまま乗り込む。乗車券を確認する運転手がちらりと視線を後ろへやったが何も言われることはなかった。
席はできるだけ奥の方の、人とは近くない場所を選んだ。みんな同じように選んで座っているのか前後左右は空いたまま乗車口がプシュッと音を立てて閉じる。
このバスに乗っている間は誰とも話すことなくじっとしていられると思うと、こわばっていた肩の力がするりと抜けて楽になった。
片耳につけたイヤホンから流すプレイリストを選び目を閉じる。車の中で眠れる質ではないが、ただ目を閉じてアスファルトの乱暴さをゆりかごにするのは好きだった。
東京を出れば眩しすぎるネオンライトも影を潜め、静寂と暗闇に寝息を立てだす人もいるだろう。鉄の箱とは思えないスピードと穏やかさで進む夜行バスが嫌いではなかった。
そろそろ走り出すかと思った頃、プシュッと音を立てて揺れた。
「すみません、あの」
若い女性の声が入ってきてぼやけ始めた思考に再びピントが合う。発車ギリギリのところで乗ってきたらしい。小さな手荷物一つで歩いてきた彼女は、復路分の乗車券を持ったまま僕の座る席の通路を挟んだ向こう側に落ち着いた。夜行バスはアナウンスとともにすぐに走り出す。
白いTシャツに薄手のパーカーを羽織った、女性というのには幼さの残る女の子。その出で立ちに顔を背けて、冷房が当たってひんやりと冷たい窓の縁をなぞる。
透明なガラス越しに見える彼女の姿に覚える羨ましいような、浅ましいような感覚。胸の奥が気持ち悪くうねって、また目を閉じた。
学生時代の友達が結婚する。背負ってきたリュックの中にはカジュアルめのスーツが詰めてあって、バスの行き着く仙台で彼の晴れの席に参列することになっていた。
日に焼けやすい浅黒い肌とスポーツマンらしい短髪の陽介に、きっと白いタキシードは似合わないだろう。それでも誰よりも嬉しそうに笑って、来る人すべてに心から祝われる姿が目に浮かぶ。陽介はそういうやつだから。
想像する。真っ白のチャペルで花に囲まれた幸せな式。抜けるような青い空に色とりどりの風船が舞い、天使が舞うように宙を遊ぶ。目に映るものすべてが美しい一日に一際輝く白いベールの、花嫁。
何度想像してみても、段々になったレースのドレスを纏う顔がぽっかりと空いている。
そこに入るのは女優のように洗練された笑顔か、モデルのように引き締まったスタイルか、それとも隣の席で汗を拭う女の子の顔か。
僕は陽介の隣に立つ選ばれた一人に、出会う女性それぞれの顔を当てはめてしまう。ダメだ、彼女の笑顔は陽介の爽やかさを損なわせる。ダメだ、彼女の背丈は陽介の長身に釣り合わない。
ダメだ、僕の方が、
それは悪癖と呼ぶべき性質で、僕は陽介の結婚相手を見たことがないのをいいことに繰り返し自分を正当化する。誰かを当てはめては似合わないことに無意味な安心感を覚え、自分こそがと悪態をついて見せる。
そんな人間が陽介の暖かな門出を、人の幸せを祝えるはずもなかった。
自分がそういう性質だと分かったのは中学生の頃、それから僕の容姿は売り物になった。生まれつき線の細い手足と癖のない髪は様々な男を悦ばせ、性別の輪郭を曖昧にする夜をくれた。綺麗なものが好きな人間は多い。同時にその綺麗さを独占し無造作に扱いたがる人間も。
女の子になりたかったわけではない。でも男らしくと言われれば心がささくれ立つ。自分を悦ばせるものがなんなのか、自分でもわからなくなっていた頃に陽介に出会った。
きっと僕を真っ二つに切ったら、黒々としたものが這いずり落ちるだろう。最低な自覚はあったけれど、相手だって僕を享受しているのだと思えば悪魔のように微笑みを使うことができた。だけどその黒々しいものの中に、陽介への思いだけは綺麗なはずだった。
それが今では顔のない誰かと自分を比べて、蔑んで、落として、自分のことは棚に上げて、その真っ白なドレスをずたずたに引き裂こうとしている。綺麗なのは外見だけ。中身は誰にも見せられないほど、エグくて濁っている。
あ、零れ落ちる。
と思った瞬間に、肩を叩かれた。
「あの、春樹さんですよね?」
僕は慌てて目元を拭い通路側に視線を向けると、バスに滑り込んできた女の子が中腰の姿勢で声をひそめて話しかけてきていた。
さっきダメ出しをした花嫁の顔にドキリとするが、そんなことがわかるはずもなく彼女はちょっと困ったような笑顔をしている。
「そう、ですけど」
「やっぱり! バスに乗ってきた時からそうかなぁと思ってたんです」
彼女はニコニコと愛想を振りまきながら寄ってきて隣の席に座ろうとする。しかしとうの僕にはまるで覚えがなく、知らない人が詰めてくる距離に怯む。
そのしかめ面を察したのか、彼女は慌てて「覚えてないですよね、いいんです」とパタパタ手を振った。
「由利 美波です。何回かお会いしてるんですけど、大学とかで」
ゆり、みなみ。頭の中で検索にかけるがヒットしない。そもそも大学でフルネームを覚えている友人など片手で数えられるほどしかいない。
入学当初は友達よりも手軽に遊んでくれる相手が欲しかったし、陽介とつるむようになってからは彼と仲の良い数人としか話した覚えがない。我ながら灰色の学生生活に頭が腐っていく。
「大学とかって、他のところでも会ったことあるの?」
「はい、えっと、ホテルで」
彼女は、由利さんは少しだけ言い辛そうに口をもごつかせて言った。その台詞に彼女にまつわる記憶がフラッシュバックする。
酔った勢いで、大学の近くのチャチなホテルに雪崩れ込んだ。月明かりのない真っ暗な部屋で、白く浮いたような肢体が眼下に広がっているのが不思議で仕方なく、いつも体を重ねる彼らにはこんな景色が見えているのかと妙な生々しさを感じていた。
肌の温みを楽しめば良いのか、嬌声に従うように動けば良いのか、実感と高揚のない行為が続いて、すっかり酔いが醒めたことを自覚する。夢の国を真似たような野暮ったい部屋の装飾に自分の愚かさを嘲笑われたような気がして、眠る彼女を置いて始発に合わせてホテルを出た。
色んなことが嫌になって自暴自棄になり、他人を使ってさらに自分を追い詰めた。何もかもが自分には似つかわしくない朝が重く背にのしかかってきて、足早に家に帰って眠った。
そうだ、確かにあのときの女の子は「ゆり」といった。だが恋愛の真似事のような場で聞いたためか、完全にファーストネームを名乗ったものだと思って忘れていた。俺も「はるき」と下の名前を告げ、そのあとは名前など必要もなかったからそれきり。
自分勝手に手を引いて口付けた女性の顔など覚えているはずもなかったが、右の目元の印象的な涙ボクロがろくでもない記憶を刺激する。
しかし頭の中の艶っぽいシルエットと、目の前の彼女がうまく繋がらない。顔のパーツひとつひとつは同じ人のそれなのに、まるで雰囲気が変わっている。
あの頃はもっと、支配欲をそそられるような儚さがあって夜がよく似合っていた。だから気まぐれに出会った彼女を誘ったのだ。
しかし今の由利さんは小柄で人懐っこい笑みを浮かべ、あのときのことなど水に流したように朗らかに話し始める。気がつくとすでに隣の席に座っていた。
「わたし、もうすぐ結婚するんです」
「そうなんだ。えっと、それはおめでとう」
口先だけのお祝いの言葉にも由利さんはくすぐったそうに照れた顔をして、ありがとうございますと頭を下げた。ぺこり、と効果音でもつけたくなるような仕草がさらに幼く、一緒にホテルへ行ったときはいったい何歳だったのだろうと考える。
「相手が仙台の人で、一緒に暮らすことになってるんです。だから今日で東京とはさよなら」
彼女が伏し目に視線を逃がすが、僕は気が気じゃなかった。陽介の結婚相手も、東京から仙台へ移ってくると聞いた。まさかそんな偶然が、と世間の狭さを疑ったけれど、彼女がスマホ画面で見せてくれたのは見も知らぬ誠実そうな男の笑顔だった。
「だから今日は東京で過ごす最後の夜なんです、バスの中だけど」
それは残念だね、と言いかけてやめた。そもそもなぜ彼女が東京最後の夜の再会に手を伸ばしたのか、考えてみれば明確なことだった。
一夜の過ちの相手、自分を弄んだ男。恨み言の一つも言いたくなるだろうし、結婚する身としては間違いで触れてしまった唇を塞いでおきたいと言う気持ちもあるかもしれない。
通路を挟んだ窓の外から小さな東京タワーが見える。ちょうどあんな赤と白のネオンのホテルで、由利さんはどんな顔をしていたのだろうか。思い出そうとしたが、もともと焼き付けていないものが思い出せるはずもなくイメージ映像が流れるだけだった。
「あの時のことは、今日のことも誰にも言わないよ」
そもそも彼女とのあれこれを言いふらすような相手もいない。今夜会わなければ、暗闇の中にぼんやりと浮いた顔の答え合わせすらままならなかったはず。
あの頃の由利さんは確か茶髪のロングヘアだった。女子大生然とした格好の割に艶っぽい仕草や表情が大人っぽく、今より数歳若かったはずなのに年上のような印象があった。しかしほぼすっぴんに近い今の顔を見てみれば、明らかに自分よりも年下なことがわかる。
曲がりなりにも一度は関係を持った相手の、他人の幸せを壊すような趣味はない。祝うこともできないが、わざわざ禍根を残すこともないくらいに、僕の中ではすでに過去だった。
恨み言の一つでも聞いていけというなら、多少は付き合ったっていい。
「あ、違いますよ。あのときのことを責めたり口止めしたかったわけじゃないんです。ただ、」
違うのか、と少しホッとする。そういえば恨み言を聞いたところで彼女の満足がいくような返しができるはずもなく、自分にできるのは本当に”聞く”ことだけだと気がついた。
「春樹さん大学ではちょっとした有名人だったから、構内では声をかける勇気なんてなくて」
「それ本当に僕? 大学の友だちなんて片手で数えられるくらいしかいないよ」
「そういうところですよ。すごく綺麗で目立つのに一匹狼っていうか、誰も寄せ付けない感じで。わたしもそうなりたかったんです」
これでも実は人見知りなんですよ、と困ったように微笑んだ。それは確かに言葉に窮する人の仕草だった。
そんな風に見えていたのか。
当の自分では見た目を他人に消費させて、その対価を奪い取るように貪っていたのに。もしくは大学内でも僕がそういう性質であることが知れ渡っていて、人から避けられているのだと思っていた。しかし結局手元に残ったものを数えてみれば、どちらにしても同じことだ。
「だからあの日はチャンスだって思ったんです。飲めもしないバーのカクテルなんて頼んで近くに座って、春樹さんとそうなれたらって」
「そう、ってそれはつまり」
「はい、わたしが誘いました。ホテルに」
覚えていることなんてないと思ったが、半開きになっていた記憶の棚をこじ開けると奥には彼女の言う通りのものが引っかかっていた。
僕も相当酔っていた。だけどあれきり女の子と、なんてことは一度もない。ベッドの軋む音をただ聞いているだけの、酔いが冷めた自分の白々しさにようやく納得がいった。
「大胆というか、度胸があるね」
「大学生なんてそんなもんですよ。男の人だけが女の子を狙ってるとは限らないんです」
くすくすと笑ってみせる仕草が記憶の中の彼女と、「ゆり」とダブってようやく頭が理解する。確かにあのときの、僕の手を引いたその人だ。
「だから責任ならわたしにあります。春樹さんは悪くない」
「事実はそうだろうけど、世間的にはわからないよね」
「そうですね、春樹さんわたしのこと置いていったし」
それはごめん、と頭を下げると、責任はわたしにって言ったでしょう、と返される。過去の相手と、こうして友達みたいに話していることが不思議で仕方なかったがなぜか心地良く思う自分がいる。今後彼女とはどうともならないという安心感で、不必要な駆け引きを取り去ったからだろうか。
首都高を走るバスがカーブに差し掛かっても、隣の席に座るの彼女と肌が触れることもない。瞬間的に近づいて、離れて、また少しだけ近づく。
ポケットの中のスマホが震えた。ディスプレイには陽介の名前と僕を心配する言葉。眠れないバスの中で退屈していないかと問うメッセージを眺めて、すぐに閉まった。嫌な優越感に満足したくなかった。
この言葉は、僕には毒だ。
「また不幸そうな顔してる」
会話を続けようとした僕に、由利さんが言った。運転席上の電光掲示板には『ご体調の優れない方は運転主にお申し付けください』と流れていた。
「わたしがどうしてあのとき春樹さんに近づいたか、わかりますか?」
「、わからないけど」
「春樹さんとなら、うまくやれるかもって思ったからです。わたしも、一人だったから」
何か言いたかったけれど、笑顔の消えた由利さんの表情は人形のように浮いて見えて、茶化すような言葉を許さなかった。
「酔わなきゃ誘えるはずもなくて、あのときは本当に最初で最後のチャンスだと思ったんです。そうしたらあなたはわたしがしたいように、最後まで付き合ってくれた」
違う、もっと自分勝手な気持ちだった。僕の、自分のための行為だったはずと思うのに、酔いの冷めた自分はただ終わるのを待っていた気もする。自分がわからなくなる。
彼女の方が自分を知っているんじゃないかなんて、そんな気さえしてしまう。ただ由利さんの手は少し震えていて、握った爪の先には色がない。その血色のない手を僕は自分の指先で何度も見ている。
「あなたの恋人に、なりたかったの。でもしてる間中、春樹さんすごく不幸そうな顔してた。すぐにわたしじゃダメだってわかりました」
「買い被りすぎだよ。僕は何も考えてなかったし、君がダメなんてことなかったよ」
「ほら、またそうやって自分のせいにする」
彼女の人差し指が線となって僕に突き刺さり、知らないふりをしていた何かに刺さる。自分のせいになんてしていないけれど、自分が悪いのだ。友達と同じになれない性質も、うまく人と関わり合えない侘しさも、全部自分の悪癖だ。そんな僕は不幸そうな顔をしていなくちゃ、
「でも、春樹さんにはもうそんな顔しなくてもいい人がいるんでしょう?」
「いないよ、そんな相手」
「嘘、わたし春樹さんのこと好きだったって言いましたよね。好きな人のことはわかります。春樹さんだってそうじゃないですか?」
しまい込んだスマホが震える。連続して何度も、陽介の名前が表示される。本当は筆不精の癖に、こんなときばかり勘違いしないようにと作った壁を軽々と超えてくる。
友達でも恋人でも、誰も僕を好きになんてならない。僕は誰も好きになんてならない。その壁を彼が超えたから、僕は触れ合いもない男友達の結婚式にのこのこ呼ばれていって、自分に渡せる精一杯のお祝いの言葉まで考えている。
不毛だ、こんなものは。でも嬉しい、好きになれたことが嬉しい。
「そうだね。僕もそうだった」
自分には誰にもいないなんて、そんな顔はやめるべきだった。
「わたしはちゃんと幸せになりますよ。春樹さんも、なれるかもしれないでしょ」
「かも、なんだね」
「それは運命の赤い糸と、自助努力ですから」
相反する言葉に笑ってしまった。本当にその通りだと思う。
「あの、おめでとう、ゆりさん」
「ありがとうございます、はるきさん」
その夜は色んなことを思い出した。陽介が好きだと気づいたとき、僕は彼に軽蔑されるのが怖かった。そんな風に思うようなやつじゃないのに怖かったのは、それが自分でも驚くほど純粋な恋心だったからだ。
それからは彼の息遣いが、話し声が、隣りにいるだけで安心感を与えてくれた。たくさんの緊張と勘違いを繰り返しながらも、それらすべてが愛おしくなった。
黒々しく渦巻く嫉妬と諦めの中にまるで中学生の恋のような、自分でも笑ってしまうくらい初々しい気持ちの数々が残っていたなんて。
彼女はそのあと僕からは見えない席に座り直し、東京最後の夜を過ごした。僕の方は陽介に「大丈夫だよ」と返信したところで記憶が途切れていて、すべての緊張の糸が切れたみたいに夢を見た覚えもない。仙台に着くまでのいくつかの停車場でぼんやり目を覚ました気もするが定かではなかった。
結局彼女がどうして僕に声をかけたのか、聞くのを忘れてしまった。だがまるでかつての恋人みたいに暖かなその眼差しが、聞くことに意味などないと教えてくれる。
『お次は仙台駅前。仙台駅前。お降りのお客様はお忘れ物のないよう、ご注意ください』
人よりもずっと遠回りをしている。はじめて見る顔に慰めを求める夜もたくさんあった。だけど全部が愛おしいと思える日が来ると、信じられる夜もある。
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