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それは角の取れた熱情【第一話】



爪を切って頂戴、と言うと男はいそいそと鏡台の中から爪切りを取り出してきた。

ついでに薄暗かった照明を一段と明るく灯し、プラスチック製の小さなくず籠も一緒に持ってくる。まるであたしが言うわがままを知っていたみたいに整然と準備をして、最後に冷たい床に胡座をかいて座った。

籐の椅子に腰掛けたあたしよりも低くなった彼の頭には白髪が混じっていて、おそらく二回り程は歳上だろうと思う。それがかしずくように跪いてあたしの冷えた足を温めているのは、何度見ても不思議な心地がした。


この男のことを、あたしはほとんど何も知らない。知らないけれど、付き合いだけで言えば1年くらいになる。

人の多い山間の街から離れた海沿いの小さな別荘があたしたちの秘密の隠れ家で、少なくとも月に二度はそこで落ち合った。

知人づてにたまたま見知っただけの大人の男、額に刻まれた柔らかな皺と丸眼鏡が歳を感じさせる男、妻子も立場もあるはずの男。

それがいつの間にやらすっかり口上を憚られるような関係に堕ちてしまっていた。

時折彼に招かれて乗り込んだ電車の中で「なんのきっかけにこうなったのか」と考えるけれど、大抵は正解の端切れすら掴めずに目的の駅がやってくる。

そこから15分ほどの距離を彼の車に揺られていれば「なるべくしてなったのだ」という根拠もない結論が頭の中に居座るから、あたしは考えるのをやめてしまった。


男の手とあたしの足の温度が同じになった頃、彼はかかとをぐいと持ち上げて自分の腿の上に乗せる。仕立ての良いつるりとした布越しにわかる肉の感触が足の裏を這い、男の形の良い額に影が落ちた。

しかし目尻はとろりと下がり、口の端はゆるゆると上を向いている。

なにか仄暗い悦びを感じさせる表情を、男はたびたびあたしに見せた。街の寝静まるころにあたしを迎えに来る車の中で、散らかした寝間着を拾い上げる手の中で、着崩した浴衣で部屋に寝そべるあたしのそばで、恍惚とした視線を浴びせかける。

そのたびにこの男が自分とはまったく別の生き物で、あたしの中の若い女に価値を見ているのだと感じられる。

これはきっと等価交換だ。

口にすれば消えてしまうような、というよりも無関係者の不興を買って殲滅されるだけの、儚い交換なのだ。

そう思うことであたしは心中に散らかしていた様々な事柄を納得させることができた。


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【第二話】に続きます。

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