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にらめっこ



サンダルを捨てるように脱いで部屋に入ると、夏の湿気った空気にむっとする。ゴミは旅行前にすべて片付けていったので異臭はしないが、人間が不在にしていた部屋は抜け殻のように寂しい気配で満ちている。

わたしは一息つく前に洗面所へ向かい、持っていたクリアのバッグから大判のタオルと水着を取り出す。海から上がったあとに真水に晒したはずなのに、オレンジ色の水着からはツンと潮の香りがして、それをかぐとどっと数日間の疲れが押し寄せてきた。

早くベッドに身体を沈めたい気持ちでいっぱいだったが、仕方なくお風呂の洗面器に水を溜めて水着を放り込み、ゆすってみたり絞ってみたりする。そのうちに潮の匂いが狭いバスルームに漂いはじめた気がして小窓を開けると、赤く光るものが見えた。東京タワーだ。

出しっぱなしの水道水がぱちゃぱちゃと飛沫を上げるのを見て旅先の美しい海を思い出したが、眺めていると海のそれには似ても似つかないことに気がつく。水底に青が透けた波の層も、いつまでも消えずにいる白いあぶくも、東京の整然とした街では見つけられそうにもなかった。

頬に飛んできた水滴を拭うと、ざらついた感触とともに指先に小さな砂粒がついていた。飛行機で約3時間の海からはるばるこんな寂しい都会までやってきてしまったらしい。それがどうして彼じゃないのだろうと、無意識に思ってしまう。

洗面器に小さな波紋がいくつも連なる。ひと夏の恋なんて。わたしはタイル張りのバスルームにへたり込んだ。



東京で生まれ育ったせいか、わたしは高層ビルの間から見える大きなタンカーの浮かんだ海と、テレビに映る地方の青々と美しい海が地続きになっているなんて信じられなかった。

そう友達のアミに話したら、大学の夏季休講の間に瀬戸内の海を見に行くことになった。

「わたし、親戚がそっちにいるんだ。ミホも行こうよ」と少し得意げに話すアミと連れ立って旅行に行くのははじめてのことではなかった。活発で行動力のある彼女は、わたしが口にした小さな夢をまるで授業終わりの帰り道にパフェでも食べに行くくらいの気軽さで叶えてくれることがある。

そうして今回も夏らしい水色のネイルで爪を整えた彼女に手を引かれて、小さなスーツケースを転がして見知らぬ土地に降り立った。

観光客でごった返した空港でわたしたちを迎えてくれたのがリクだった。形の綺麗な開襟シャツにベージュのチノパン、それに浅黒い肌に似合わない線の細い顔をしている彼に「ありがとう、助かる」とアミは親しそうに腕を掴んだ。

彼はふたり分のスーツケースを引き取り、乗ってきた深緑色の軽自動車の荷台に積み込む。その間にアミとわたしは手持ちのバッグと一緒に後部座席に乗った。リクは「うしろ、狭くない?」と確認しながら運転席に座り、2回ほどキーを回してエンジンをかけた。

ざらついたラジオが流れる車内であれこれと懐かしがって話すアミに、リクは言葉少なにぽつぽつと返事をしている。無口な性格なのかな、それとも何も話せずにいるわたしを気遣ってくれているのかな、と思って黙っているうちに気がつけば車は低い堤防沿いを走っていた。

水面の内側から発光するようなキラキラとした青い輝きが至るところで瞬き、白い砂浜との境目を曖昧にしている。いつだったか薄型のテレビ画面でうっとりと眺めた景色と同じ、いやそれ以上のうつくしさが次々と流れていった。

「綺麗、」

小さくつぶやくと、リクはミラー越しにわずかに見える薄い唇の端を上げて「でしょ」と少し得意げに言った。わたしはなんだか恥ずかしくなって、見えもしないリクの視線から逃れるように窓に張り付く。アミもわたしの方の窓に身を乗り出してきて「やっぱり東京の海とは違うねー!」と半ば叫ぶような大きさの声で笑った。



彼をすきになるまでに、そう時間はかからなかった。

わたしたちが宿泊したのはアミの親戚が経営している民宿で、リクはそこの家の長男としてあれこれと世話を焼いてくれた。あとから話を聞いたら来年大学を卒業したら店を手伝うことになっているらしく、実質跡継ぎのようなものだそうだった。

リクは民宿から少し離れた歓楽街まで車で送り届けてくれたり、夏休み中でも人の少ない綺麗なビーチへ案内してくれた。憧れの美しい海にはしゃぐわたしたちのうしろでリクはいつも静かに笑っていて、その小麦色に焼けた頬の薄さを見るたびに、わたしはくすぐったいような不思議な気持ちになる。

彼は瀬戸内の海や浜辺、趣のある静かな民宿の雰囲気の良さを褒めると、とても嬉しそうな顔を見せた。普段は控えめな表情の裏に隠れていたものが露わになって、ひとつ年上だと言うのに無邪気さすら感じられる。特にあの瞳、普段は静かにふせられた目に光が入るとキラキラと輝き、布団の中に潜るたびに瞼の裏で繰り返し思い出された。

アミはリクがしてくれることのひとつひとつに少し大げさな笑顔を作り、耳元で何かを囁くみたいに親密そうな距離感で並んで歩いてく。その光景が夕陽色に染まるビーチに溶けるみたいにぼやけるから、わたしは彼がすきなのだと自覚した。



楽しみにしていた旅行も残りわずかに迫ってきた頃。今朝も「海に行きたい!」とリクエストしたアミとわたしを迎えにきたリクは、小脇にスイカ柄のボーチボールを抱えていた。

3人で海に繰り出し、照り返しのきつい浜辺にサンダルの跡をつけていく。足の裏に入り込んだ砂粒を浅瀬に流すと、全身の熱がすうっと落ち着いていく気がする。

アミが長い茶髪を後ろ手に結ぶと大人っぽい顔がさらに引き締まって、黒の水着もより映えて見える。背も高いのでさながらモデルみたいだなと思っていると、昨年買ったオレンジ色の少し子供っぽい水着の自分が恥ずかしくなる。せめて新調すればよかった。

リクは相変わらずのチノパンと白いTシャツ、痛みの目立つビーチサンダルで浜辺へ出た。わたしたち以外にも何人かの先客がいたが、来る途中に見たどのビーチよりも人が少なくて快適だった。

わたしたちはリクの持ってきたビーチボールをぽんぽんと投げ合って遊ぶ。3人だからチーム分けはできないねと話していたが、そのうちに「飲み物買ってくるよ」と言ったリクが抜けてアミとふたりきりになる。

ちょっと疲れたね、とどちらからともなく日陰を探して座り込み、海水と汗でべとついた肌がわずかに赤くなっているのを眺める。日焼け止めを塗り直さないと。そう思っているとアミが唐突に口を開いた。

「わたし、リクが初恋なの」

その言葉の衝撃に頭の半分がもやがかり、もう半分ではバッグのどのポケットに日焼け止めクリームを入れたかなと考えていた。薄々そんな気はしていたし、きっとわたしにも話すだろうと構えていたから大きく驚くことはない。しかしその反面で、どうか気のせいであってほしいとも思っていた。

こういうとき、わたしも自分の気持ちを打ち明けるべきなのだろう。だけど思いがけず訪れた最適のタイミングに戸惑い、「すき」という言葉が喉につかえる。無理やり出そうとすれば海の波間に飲み込まれてしまいそうだった。
そのうちに痺れを切らしたようにアミがポニーテールを結び直しながらはっきりとした声音で「今でも」と付け足した。

何も言えずにうつむくと、淡いピンク色に塗った小指の爪が少し欠けている。それを見て気だけが焦っていると、いつの間にかリクが戻ってきていた。

アクエリアスのペットボトルを抱えたリクに、アミが「喉乾いた~」と気の抜けた声を出して何事もなかったように腰を上げる。アミは友達だけど、わたしは彼女のこういうところがきらいだった。

ふたりが波打ち際でペットボトルを開けながら話している。楽しそうだ。わたしもその輪に加わって、リクから海のような色をしたドリンクを受け取る。キャップを開けて少し泡立った部分ごと口をつけると、急に視界がひらけたみたいに身体中が潤っていく。喉につかえていた「すき」もぽろりと取れて、口の中に溜まる。

「ねぇ、リクも海に入ろうよ」

そう誘うと、彼の綺麗な目がわたしを見た。リクは水着を着ていないので、足の甲が水につかるほどのところまでしか入らない。わたしもアミがしていたみたいにリクの腕を取りたかったが、うまくできずに服を引っ張るような形で飛沫の強い方へ進んでいく。

ふたりきりになれば言えるかもしれない。ただ見ているだけはもどかしい。淡い期待と水に沈んだ砂が足をとる。

「わっ、だめ、」

リクの慌てた声とざざっと上ずった波の音が重なる。一際大きな水飛沫がふたりを縁取ったかと思うと、勢いよく地面に打ち付けた膝に広がるじんわりとした痛みがぬるい海水にさらされた。リクの履いていたベージュのチノパンも暗く陰ったように色づいていく。

目が合うと、彼は笑っていた。いつもの静かな笑みじゃない。声を上げて目尻にシワを寄せた顔が、胸の奥を熱くさせる。

リクはわたしの頬についた湿った砂を指で拭い取ってから「立てる?」と手を差し伸べてくれた。濡れた彼の頬に赤が透けている。

海水で吸い付く手に引かれて立ち上がると、うしろでアミのポニーテールが揺れていた。口の中にあった「すき」は転んだ拍子にどこかへ落としてしまったみたいで、わたしはぐっと唇を噛みしめる。そのかわりにわたしの手を強く引いたリクの耳の後ろのほんのりした色づきが、胸の奥の熱を燻ぶらせていた。



その日の夜、焼けた肌の熱を持て余して外へ出ると、リクが民宿の庭に設置された小さなパラソルの下に佇んでいた。プラスチック製の白い椅子が2脚と細かい砂粒が目立つテーブルがひとつ。小さい頃は親戚が集まってここでバーベキューをしたのだとアミが話していた。

わずかに波の音が聞こえる夜の静けさの中、わたしの足音に気がついたリクがテーブルを挟んだ向こう側の席を勧めてくれる。遠慮がちに腰掛けるとギ、と椅子が軋む音がする。

旅もすでに4日目。明日昼前にはここを出て空港へ向かい、東京へ帰らなくてはならない。今日、しかない。

「そこから見える?」

「え?」

黙って座っていたわたしの前に細長い腕を真っ直ぐに伸ばして指差す。その先に目をやると寄せては返すきらめきが見える。

「海だ、」

ほんのわずかだけど、建物の間に細く海が見える。コンクリート詰めの枠に縁取られた海は地平線に向かって波を伸ばし、泡となって返ってくる。

「その場所からだけ見えるんだ。俺の秘密の場所」

「綺麗だね」

「でしょ」

彼は少し得意げに笑った。最初に車の中で海を見たときも、こんな目をしていたのだろうか。水底が透けるような、綺麗な瞳。わたしはまたわけもなく恥ずかしくなって咄嗟に言葉を探す。

「うちからも見えるよ」

「うちから?」

自分の言葉が足りなかったことに気づいて慌てて付け足す。

「あ、海じゃなくて、東京タワーなんだけど。わたしの部屋のお風呂の、小さい窓からほんの先っぽだけ、見えるの。それを思い出して」

「東京タワーか、」

リクがつぶやいた。月明かりでまつげが頬に影を落とす。

「いつか見てみたいな。俺、ここを出たことがないんだ。店も一年中やってるから、遠くへ旅行ってちょっと憧れ」

囁くように聞こえてくる波の音ほどのリクの声。伏せられた目がどこか寂しげに光っていた。

「どこか別の場所へ行ってしまいたいって、思わないの?」

「思ったことは何度もある。でも、俺はここで生きていくから」

わたしもひとりだったら、きっと遠出して海を見に行くなんて夢の中の出来事だった。行こうとすればいつだって行けるのに、東京の狭いワンルームからから動けないのがわたしだと思っていた。

彼にとっては、ここがそうなのだ。

「ミホは?」

そう問われて、頭の中にぽつりと東京タワーが浮かぶ。実際にアミに連れられて美しい海のさざなみを聞いたところで、自分はどこへでも行けるだなんてこれっぽちも思わなかった。

言葉少なな夜の静けさに包まれながら、時々何か言いたげな視線が漂ってくる。しかしそれが言葉になることは決してなく、遠い波間に掬われて消えた。きっとわたしも同じ目をしているだろうとわかって、吸い込まれるように月の光の入ったリクと目があった。

わたしたちは、似た者同士だった。

それが視線を絡ませるとよくわかる。熱っぽくて、でも形にはならず、淡いままで消えていく。まるで波のように幾度も寄せては返すが、決してその形が重なり合うことはなく、ただ微笑むだけで張り合いのないにらめっこのような。

リクもわたしも、いくじがないのだ。

「暑いね、」

「もう少し涼んでいきなよ」

そう話しながら触れ合った指先は焼けるみたいに熱いのに離れがたく、重なった手の間でざらつく砂粒を払うことさえ躊躇われた。



東京へ戻る朝、リクは出会ったときと同じ開襟シャツとネイビーのハーフパンツ姿であらわれ、アミとわたしのスーツケースを車に積み込んで送ってくれた。

空港についてからアミがお手洗いへ行くと席を外したとき、また何度もにらめっこをするみたいに視線があったけれどお互いに口を開くことはなく、短い別れの言葉とともに帰りの飛行機へ搭乗した。

手荷物だけを抱えて乗り込んだ機内で一息ついた頃、アミが言った。

「何も言わなくてよかったの」

その言葉が意味することがわかって、戸惑いながらも言う。

「アミの初恋だって、言ったじゃない」

「それは関係ないでしょ」

ぴしゃりとたしなめるような口調に閉口する。もう「すき」という言葉は喉をつかえていなかった。

「ひと夏の恋なんて、わたしはそんなの絶対に嫌。だからミホにも、そうなってほしくなかったのに」

彼女の目の下には薄く隈ができていて、昨夜よく眠れなかったことがわかる。アミは何を思ってひとりで夜を過ごしたのだろう。誰もいない布団のとなりで、じっと、待っていてくれたのかもしれない。

わたしはアミのそういうところが、すきだった。

そのうち眠たそうにする彼女を見ていたらわたしにも睡魔が訪れてきて、轟音とともに飛び立つ飛行機の座席の背もたれに身体を預ける。

せめて東京タワーを見せてあげたかった。わたしの生きている場所を見てほしかった。それでふたりの視線が重なることがなくても、波間でもがくことに意味があったと思えて仕方がなかった。

睡魔に襲われて閉じかけた瞼から何粒か滴が零れ落ち、それからしばらく眠った。




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