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「ケア」と「アート」についての覚書き/一日一微発見357

現在、コンテンポラリーアートの方向は「ソーシャル」である。これは政治・経済から人種・性差などの「ソーシャル・イシュー」をテーマにしたアートだが、これを「新しいアート」だとか、「新しいアートの潮流」だと考えるのは、まちがっているだろう。

ある意味で「ソーシャリー」なアートは、「アートが何であるか?」という根本・本質を今まで以上に鋭くついてくるものだ。

今までのアートは、「アートとは何か?」という求心性をもち、極端な場合は、「アートのためのアート」や「絵画の可能をフォルマリスティックに追求する絵画」という「深度」にこだわってきた。それ故にそれらを追求するアーティストたちは「アートは現実との接点なしで成り立つ」と主張する時もあるのである。

その態度は、僕は戦禍のさ中や、カタストロフのさ中であっても肯定されるべきだと思う。

と同時に、アーティスト/アート作品は、どんな形であれ「ソーシャリー」という条件からも逃げることはできないとも考えるのである。

アポリアであり、逃げず対応するしかない。
矛盾なき日常などない。

アート活動と、社会矛盾に抗するソーシャル・プラクティスの区別はかぎりなくなくなっていくだろう。

アーティストが同時に「アクティヴィスト」として活動するのは今や当然のことだ。
そして、このことにはシチュアショニストを例にあげるとわかりやすいが、アートヒストリーの中においても潮流が形成されてきた(クレア・ビショップの『人工地獄』はそれを示した重要な本だ)。

水戸芸術館で開催されている「ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術ーいつ、どこで、だれに、なぜ、どの
ように?ー」は、大量の観客を集めようというブロックバスター的/商業主義の展覧会と全く異っている。

地域も時代も異なる15組のアーティストが集められキュレーションされているが、ひとつのキーワードを立証するためにキュレーシュンされてはいない。
「ケアリング」というキーワードをもとにさまざまなレイヤーで、「接続の手」を出す。だから「答え」を求める先入観で展覧会を見ると、わからなくなるかもしれない。

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