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AD/HDの僕が人生で一番嬉しかったこと(報われた編)

人生で一番嬉しかったことってなんだろうなって考えてきた時に一番に出てくるのが、大学受験合格です。

僕は小さい頃から勉強が苦手でした。
僕はAD/HD(不注意型)があり(学生の時は診断されていなかった)、授業についていけなかったり、勉強していても集中できなかったりと、地道に勉強というものから僕は遠ざかっていきました。

高校は偏差値40ぐらいのところへ行き、その偏差値40の高校でもテストをすればいつも順位は下の方(さすがに最下位になったことはなかった、と思う)。

勉強については諦めていた部分もありました。どうせやってもできない。ならやっても時間の無駄。それなら自分の好きなことに時間を使った方がいいと思っていました。将来のことなんて考えるのも嫌でした。

しかし、僕は名ばかりの進学クラスに所属していたため、高校3年になると、クラスメイトたちは進学先を決め始めます。

担任との面談で何度も進学のことを聞かれましたが、僕はのらりくらりと進学のことについてははぐらかしていました。

でも、仲の良い友人たちが自分はあの大学に行くだなんだという話を耳にしていると、僕も適当なところに進学してみようかなと思い始めました。

それからというもの、自分で大学を調べ、自分が行けそうなところを探すようになりました。

しかし、いろいろな大学を見てもどこか僕には合っていないように思えたのです。その時にもう少し自分の気持ちを掘り下げて考えてみることにしました。

自分は大学で何を学びたいのか。

……、特にない。

そりゃあ今まで勉強を碌にしてこなかったんだから、学びたいも何もなかろう。

大学は無理かと諦めていましたが、漠然と海外に行きたいということが頭の隅にありました。

というもの、高校2年生の時に地元の高校生たちが親善大使となり、ニュージーランドに行くというものに参加しました。

それがきっかけで海外で生活することに興味を持ち始めました。

それを思い出した僕は、担任の先生に「留学したい」と突拍子もなく言ったのです。そしたら、すぐに担任の先生は「ここはどうだ」とカナダのらB.C.州になるカレッジのパンフレットを持ってきて、あれよあれよとそのカレッジの面接や筆記試験を受けることになりました。

結果は見事合格。
この合格については僕はなんの努力もしていないので、飛び上がるほどの喜びは感じませんでした。

僕は高校卒業後、カナダに留学をしました。
英語ができたわけではなく、逆にまったくできない状況からのカナダ生活が始まりました。
だから学校の授業(もちろんすべて英語)も普段の生活もとても大変でした。
なんとか一年やり切りましたが、二年目からは更に授業も難しくなり、僕はいよいよここまでかと思い、でも退学は嫌だ、ならどうしよう、日本の大学に入り直そう、そう思ったのです。

僕はもし日本の大学に受からなかった場合も考え、カレッジを休学することにした。
日本に帰国した僕は3ヶ月間猛勉強しました。
その時は、確か亜細亜大学、駒澤大学、あたりを受けたと思います。もちろん、結果は不合格。
僕はカナダに戻ることになりました。
戻っても授業が分からず煩悶する日々を過ごすだけだと卑屈になっていましたが、実際授業を受けてみると、授業が以前よりも格段に理解できるのです。それはなぜか、日本に帰って受験勉強をしている時に基礎から英語を勉強しなおしたからでした。
基礎もわからなければ英語もくそもないわなというわけです。

そこから僕の快進撃が始まります。

テストをすれば高得点を取り、今までの僕を知る先生や友人は驚き、僕はまんざらでもありませんでした。

3ヶ月休学をしていたので、3ヶ月遅れて僕はカレッジを卒業しました。

その後、僕は日本の大学の編入学にチャレンジしました。

僕はそこで志望校をひとつに絞りました。
きっと僕の性格上、いろんな大学を受験するよりもひとつに絞った方が集中できる、そう思ったのです。

その頃は自分がAD/HDとは思っていなかったので、よく自分のことを理解して決断したと褒めてやりたいです。

日本帰ってきてから約2ヶ月、僕は必死で勉強をしました。

そして、受験当日。

試験がすべて終わり、僕は「これは受かった」となぜか自信がありました。
ようするにテストが出来たのです。
すらすらと問題を解いていく自分に酔いしれてしまうほどでした(どんだけ〜)。

受験後はやはりそわそわと実家で大学からの通知が届くを待っていました。

そして、いよいよ大学から通知が届きました。

封筒を開け、手紙を開き、僕は飛び跳ねてガッツポーズをしました。

普段の僕ならテンションがあがることがあってもこんかオーバーなリアクションは取りません。

でも、取りたくなるくらい嬉しかったです。

すぐに僕は母と父、それから留学時代の仲間たち(彼も編入が決まっていた)「合格した」とメールをしました。

晴れて僕は、その年の4月に明大生になったのでした。

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