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「『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む」(芳川泰久)を読む

 紆余曲折を経て読了に漕ぎつけたフローベールの「ボヴァリー夫人」。
※詳細は下の記事をご参照ください。

 この「ボヴァリー夫人」という壁を乗り越えるべく、訳者の芳川泰久さんの解説本を読んでみました。ひとことで言うと、とても面白い! 自由間接話法という独特な文体を、できる限り原文に忠実に訳そうとした芳川さんの意図、そして苦労がこの本で知ることができました(まあ、「ボヴァリー夫人」のあとがきと重複する部分も多々あるけど…)。
 自由間接話法以外にも、フローベールの文章に対する異常なまでのこだわりを知ることができたのも良かった。これは小説を書く人なら分かると思うのですが、作品全体の文字一つ一つにまで、自分(というか物語)の世界を浸透させたい気持ちってありませんか? 私なんかは超絶アマチュアな小説書きですが、そんな私でもたとえば重要なシーンでは太陽をやけに輝かせたり、ちょっと重要な(気配が漂うような)場面では何かをキラリと輝かせたり(疑似太陽)して、作品全体に統一感が出るような演出をしたりします。それは、おそらく一回読んだだけでは誰も気がつかないような箇所にまで気を配って書き込みます。そうすることによって、作品に、文章に、文字一つ一つに世界観が浸透すると信じて……。そういうことをフロンベールも(もちろんかなりハイレベルな領域で)やっていたということを知って、嬉しくなりました。
 また、フローベールはよく「小説を変えた」と言われたりしますが、恥ずかしながら私は今まで、彼が何をどう変えたのかが分かっていませんでした。それがここでは明確に書かれていました。「それまで、いわゆる“神の目視点”が多かった小説の世界に、初めて“神の目視点”を無効にした表現を持ち込んだ」という旨のことが。そう、「ボヴァリー夫人」を読むには、“視点”がかなり重要なんだそうです。
 視点。これは本当に大事だなと思ったのは、この「ボヴァリー夫人をごく私的に読む」を読んでからというもの、別の小説を読む際にも“視点”に意識が向くようになりました。視点を気にすると、作者の意図なんかも読み取れるようになり、少しですが小説の読み方がレベルアップしたように感じました。
 そのほかには、「、そして、」と、逆説にならない「しかし」の意味もよく分かりました。前者は、そこで文章を区切ってもいいんだけど、でもやっぱり繋げたいという意志の現われ。後者は、文章的には逆接にならないけど、文章の中に含まれた感情が逆接になっている場合の表現(難しすぎる!)。
 とまあそんな感じで、「ボヴァリー夫人」を読んだことがあるなら、この芳川さんの本はかなり楽しめると思います。んで、もう一回「ボヴァリー夫人」を読めば完璧なんだろうけど、他にも読みたい小説がいっぱいあるので、それはまたの機会に。

 それにしても、このフローベールのような自由間接話法って、世界的にどの程度浸透してるんだろうか? 自由間接話法を使うフローベールの意図もそれに心酔した芳川さんの説明もとてもよく分かったんだけど、じゃあそれが小説で何かを表現するに際して本当に有効な技法なんだろうか?
 というか、読者に分かってもらえるのだろうか?
 実際にフローベールのような書き方をしている作家がいるのか?
 日本人作家でもいるのか?
 などなど……。そういう疑問は、この解説本を読んでも解決できなかった。なんだろう、こういう技術的な問題って、楽器の演奏でも同じことが言えるんじゃないかな。たとえば、超絶テクニックを持つギタリストが、それだけで超絶に人を感動させられるのかというと、絶対そんなことはなくって、逆にシンプルな技術しか持っていないのに、なんだか妙に間の良い演奏をして、それだけで人に感動を与えるギタリストがいたりする。そういうのと同じで、自由間接話法を自由自在に扱えたとしても、それだけで「良い小説」には絶対にならないと思う。やはり、一番大事なのはもっと別なところにあるんだろうなあと思う。
 なんて偉そうなことを言ってみたけど、私はたぶん、まだフローベールのことを半分も理解していないと思う。また別のフローベール作品を読んでみたいと思います。
 ともあれ、小説を読み書きする上で、新しい視点を与えてくれたフローベールと芳川さんには心から感謝します!!

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