見出し画像

”主体的”について考える

先生「放課後残って、文化祭の準備をしてくれますか?」
A君「嫌です。今日は帰ります。」

このやりとりでの、A君は主体的だろうか?

おそらく、ほとんどの人が「A君は主体的ではない。」と思うのではないだろうか?

では、このような文脈ではどうだろう?

先生「放課後残って、文化祭の準備をしてくれますか?」
A君「(今日は家に帰ってテレビを見たいな。)嫌です。今日は帰ります。」

この文脈において、A君は主体的だろうか?

私は、ここでのA君は主体的だと思う。


それでは、この例ではどうだろう?

先生「放課後残って、文化祭の準備をしてくれますか?」
B君「(家に帰ってテレビを見たいけど、先生が言うから仕方ないか。)
   いいですよ。残って手伝います。」

私は、ここでのB君は主体的ではないと思う。


しかし、いまいちピンとこない。
まずは、”主体的”の辞書的な意味について調べてみる。



”主体的”の正しい意味

”主体的”とは、以下のような意味がある。

主体的
自分の意志・判断に基づいて行動するさま。(デジタル大辞林)

この意味の通り、
自分の意思・判断に基づいて行動することが”主体的”であると言える。


そうするとどうだろう。
先程の例において、A君もB君も”自分の意思・判断に基づいて”行動している。


そう考えると、”主体的ではない行動”なんてないのでは?
と思えてくる。

なぜなら、どの行動も自分の意思で行動しているのだから。



学校における”主体的”

今回は、これについて伝えたくて記事にした。

「学校現場において、”やること”が主体的として評価されていないだろうか?」
ということである。

分かりやすく書くと、
先生は、なんでも積極的に参加する子を「主体的だ。」と評価し、そうでない子を「主体的でない。」と評価してはいないだろうか?

私は、
ただ積極的に参加する子を「主体的だ。」と評価する先生が多いのではないか?
と思っている。


もちろん、そのような先生の気持ちも分かる。

そのような子供がいた方が、先生的にも楽ではある。
また、先生も多分、そのような子供を好む傾向にあるとは思う。



先生はどうすべきか?

「何をやっても主体的である。」
というのであれば、先生はどうしていけばいいのか?


それは、僕にも分かりかねる。

どうしても、”先生に忖度する子”を評価したくなる心理も分からなくはない。


なので私は、
「その子が主体的かどうか?」の議論をやめるのがいいのではないか?
と思う。

それよりも、
・クラスの子の適性を見ること。
・適正にあった役職を推めること。
・場合に応じて、長所や短所を子供に伝えること。

が大切ではないかと思う。



まとめ

今回は、”主体的”について記事にした。

自分自身の問題提起でもあるので、ものすごく曖昧な内容になっていることは反省している。

この記事を読んで、自分の教育活動を見つめ直すきっかけになれば幸いだ。


記事についてのコメントやご意見、お待ちしております。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?