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帰省記、ジョンレノンのスタンドバイミー

祖母が亡くなって、少しの間、父親の実家の広島へ帰ることになった。

祖母の葬式が終わり、火葬場まで大叔父の車に乗ると、大叔父の好きそうにない、ジョンレノンの「lenon legend」がかかっており、しかし、あまりにも暑いのでエアコンの音で微かにしか聞こえなかった。
かかっていたのは「power to the people」で、少し笑った。
「stand by me」のカバーが流れた時、山の上の火葬場までの繰り返される曲がり道を通っていて、流れていく草木と呉市の景色に、あぁ、祖父も祖母も死んで、もうあまり帰らないかもしれぬ、と思った。

喪服を着ていると、あまりに暑い、としか思えなかったのだが、盆であって祖父が帰ってきているのだとして、そして皆が仕事の休みの時期で、僕も実習の終わって夏休みに入った時期であるから、良かったのだと思う。

火葬される直前の、告別室にて、僕は、祖母の遺体の額に触れた。
痩せ細った、骸そのものの、頭蓋骨の上には、肉などなく、皮ばかりであり、ただ、手のひらが皮を滑って、冷たく、そして固く、僕は、この暑さと感情による手汗で、祖母の死化粧が取れるのではないかと、心配していた。

収骨では、僕が孫の代の長男であるから、箸で骨を拾うのであるが、小さい、スカスカの骨となった祖母が、納骨できるように砕かれ、より小さな何でもない塊として僕の前に置かれ、僕は、利き手の左手で、拾い、収めていった。

僕は、祖母は僕の利き手が左手であるからといって、誰そこの偉人が左利きだったのだ、と散々に言って聞かされて、うんざりしていたのを思い出していた。
小さい頃の僕は、祖母の気持ちなど分からず、ペンは右手なんだよ、とか、もういっぱい聞いたよ、とか言っていた。

最後に被せるように収める、頭蓋骨が破られた時、僕は、小さく、あっ、と声を出した。

小さな時、死後の世界について考え始めて、母に、死んだらどうなるのか台所で尋ねると、忙しかっただろう、骨になって終わりよう、とあっさり言われて、酷くショックを受けたのであるが、そしてまた、こう砕かれるのか、と思うと、やるせない侘しさばかりであった。

祖母が死ぬからといって新調した礼服は未だ着慣れず、結婚式にも着ていけるものなのであるが、それもまた、着慣れない方が、生活に波が立たず、幸せなのかもしれぬ、と思いながら、喪服を着て、冷えた缶コーヒーを飲み、煙草を吸い、親戚と話していると、僕も、訳もなく歳をとってしまったのだ、と思わされる。

変化していくことを恐れて、毎日小さな緻密な繰り返しとして生活しているのに、やはり変化は避けようもなく、それを受け入れていくしかないのだが、変化というものは普段ではあまり気づかないので、こうして、はたと気づき、感傷に浸る他ない。
感傷に浸るのは大人の悪徳だと思っていたのだが、この社会と生活を生き抜いていくという意味では、そうでもしないと生きられぬ、ということも分かるようになった。

親戚が会えば、田舎そのものの社会であるので、大抵は年長者の男共と女子供に別れるのであるが、僕は煙草を吸う時は年長の父親の従兄弟の男などと、それ以外はまた父親の従兄弟の(父親は一人っ子なのだった)女やその僕より小さな子供たちと話しているのであって、その男共の話に混ざって話している時は特に、なんとなく、また、訳もなく歳をとった、と思うのであった。

親戚同士の場で、僕はやはりいつも、しっかりしているだの、良い息子だの、あるいは、有名な進学校を出ているだの、そして、今では芸大に通っていてうんたらだの、無遠慮に言われるのであるが、しっかりしているのだとしてそれは僕が望んだわけではなく社会がそうさせたのだ、だとか、良い息子だとしたらこんなに祖父母や両親に対して罪の意識はないだろう、だとか余計な意味のないことばかり考えて、当たり前のコミュニケーションとしての親戚の粗雑さが嫌になり、適当な世辞と愛想笑い、相槌をすませて、再従兄弟の相手をしていた。

再従兄弟は、前に祖父の葬式であった小学生だった女の子が十七歳になっており、また、祖父が死んだ時には生まれていなかった男の子が四歳になっていて、随分と月日は流れるものだ、と凡庸な大人の感想を持った。
その女の子は、両親(母親が僕の父親の従兄弟である)が酷い離婚の仕方をしてから、閉じこもったようになって、前に会った時も、母親や兄から離れず、一言も話さないで、塗り絵ばかりしていて、年齢相応な無邪気さなどなく、随分と親戚は、その酷い別れ方をしたその父親を責めるのもあって、心配していたのであるが、特に変わりようもなくそのまま育っていて、高校に行っているのかも分からないが、僕の祖母の通夜と葬式に来てくれるその優しさだけで僕は十分にありがたく、親戚の心配など関係なく子供は一人で生きていけるものだ、と無責任な親戚と同じように、無責任に思った。

近頃は、葬式でもないと、やはり結婚式というのは最早僕の親族では稀で葬式が多いのであって、親戚が一同に会することはないのであるが、それがある時は、自分の血縁やルーツというものを嫌でも感じさせられ、十代の頃はそれが苦手であったのであるが、今となっては、それに少し安心を感じる。
ちゃんと誰かが生まれて、誰かと生きてきて、誰かを産んでいるから、僕はまた生きているのだ、とその当たり前の事実に、なんとなく、東京の生活にはない共同体の意識があって、特にそのしがらみに苦労していないから、安心するのだ。
あるいは、自分が連綿と続く人間の営みの中で生きている感覚、いわば地に足の着いてしまうような感覚が苦手でなくなるくらいには、僕もしっかりと生きられているのかもしれない。

葬式というものは不思議である。なかなか集まらない人間が集まる機会であって、歓談に花が咲き、僕も親戚と話すのが楽しいのであるが、ふと、告別や収骨の時などに、悲しみが押し寄せてくる。
祖父が死んだ時は、危篤になってから長く側にいたのもあって、随分と感情が入り乱れて、その後の僕の生活も、道標のように方向づけられたのであった。
しかし今回は、老衰だったのもあるが、なんとなく、僕も生きていく上での生きる者としての様々な責務のような感情に慣れてきているのもあって、悲しいという孫の感情よりも、しっかりしなければならない、気丈に振る舞わなければならないという感覚であった。


葬式にいて、その歓談と悲しみの連続に、
僕は、まるで、生活そのものじゃないか、と思う。

父親が上京して育んだ核家族の一員としての僕は、東京で十二歳の頃から生活していて、その、希薄な人間関係というものの中に安住していて、人が多いが故の、何者でもない、そして、狂気すらシステムに回収されていく、その資本主義の街に暮らしている。
人と長い時間一緒にいる、例えば旅行などといったもの、それの後で、僕は、なんとなく、ブースで仕切られた松屋のカウンター席で、カレーを食べたい、と思うのだった。
地元の駅には、相応の文化はあれど、ベッドタウンと再開発の街であるので、名前の思いつく限りのチェーン店が駅前に並んでおり、僕はそのデザインされた店名のネオンの並びを見て、あぁ、慣れている、そう、好きではない、などと感じる。

暫く父親の実家で暮らそうと思っていた。
東京が嫌になったし、随分疲れていた。
しかし目を背けようにも東京での義務は山積みだし、やはり帰って少しは休みつつでも、色々やらねばならぬ、と思い、帰りの新幹線のチケットを買った。

父親は間違いなく広島の人間で、同じように僕も間違いなく東京の人間であるのだが、親族は大切に思っているので、また、四十九日は帰ってこようと思う。

旅行をする度に思うのだが、旅は東京に背を向けて色々なところへ行くのであるけれど、やはり背を向けている分、背を引っ張るものを再確認するものなのだ。
だからやはり、これまでのように、くだらないと小さく吐き捨てながらでも、血みどろの生活をなんとかして続けていかなくてはならないのだろう。

ジョンレノンは久しぶりに聴いた。
よく聴いていたのは中学生の頃だったように思う。
「stand by me」も小さい頃から映画が好きだったし、友達がよくかけていたのもあって、思い入れがある。

公私に渡って色々なことが僕を襲って、その度に夜が来るような気分になるのだけれど、誰も側にいてくれるわけじゃなくて、やはり今までそうしてきたように、一人で生き抜いていくしかないのかもしれない。
しかし、まぁ、側にいてくれ、と歌ったり、聴いたりするぐらいは、あるいは思ったり書いたりするぐらいは、人間として、許されていいことだとは思う。

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