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2024.3.5 トパーズ、アジサイ、撮影

僕は今、住む千葉のベッドタウンから新宿を挟んで等距離にある西東京の友人の家の友人の自室の端っこに座っている。

その椅子は普段は置かれていないらしく、僕のために友人である彼が用意してくれたもので、キャンプ用の折り畳み椅子だ。

それは僕の家にあるものと構造は一緒で背もたれの動かし方も分かる。

だけれど、僕はその家にあるやつはキャンプに行ったことがないから家でのんびり煙草を吸ったり本を読んだりすることにしか使ったことがない。

今思い返したけれど、最近暖かくなってきたからあの椅子を出しても良い頃合いかもしれない。

この冬は、感傷に浸って、その感傷の起因する問題を解決するのには短かった、というのが僕の感想で、最近暖かくなったり、近所の川に河津桜が咲いたと近所の小学生の男の子が教えてくれたり、そういった急な季節の変化には随分戸惑ったのだけれど、気持ちいい季節の過ごし方は忘れてしまったようだった。

しかしそれも随分先になるかもしれない、今日と明日は雨模様で少し冷え込むようだし、花粉も飛んでいない。
というよりも、実際僕は友人宅に泊まり込みで友人のドキュメンタリーを撮影しにきているわけで、それは課題なのだけれど、やはり恥ずかしいものは作れないので、季節を楽しんでいる場合ではない。

今、彼が用意してくれた僕の座る椅子の前には学校から貸し出された機材、三脚の上にカメラが乗っている。僕の撮影するドキュメンタリーの説明をしても仕様が無いから割愛するけれど、基本的には定点で音楽を一曲最初から作っている彼の制作風景を撮っているので、画角も一個で固定しているし、同じようなものばかり沢山撮ってもいけないので意外と暇だったりする。

彼の様子に気を配りながら、必要があればRECボタンを押し、後の編集のことを考えながら頃合いでRECボタンを押して止める。この繰り返しの作業がメインで、あとはコメントを撮ったりする。

本当はナレーションとかコメントがない方がカッコイイみたいな気持ちもあるけれど課題だから色々やらなきゃいけないこともあって、面倒半分、だから面白いというのが半分という感じだ。

今日から撮影を始めて四日間泊まる、というわけなのだけれど、その間の読書をどうしようか、と荷物を用意しているときに考えていた。

全然読めていない長期貸出の文芸評論とか、最近周りが何故か読んでいる現代思想とか、あるいは今の原稿の参考になるような小説とか、色々考えたのだけれど、荷物も多いし、持ってこなかった。

代わりに友人である彼の本棚から何か借りよう、と思って、彼が随分昔に読んだであろう、そして僕も随分昔に読んだ、村上龍『トパーズ』と村上春樹『1973年のピンボール』を引っ張り出して借りた。

友人はもっとマシな骨のある本を沢山持っていたけれど、なにせ僕には撮影という大仕事があるので、それを読むわけにはいかなかった。

このドキュメンタリーは基本的に待ち仕事なので、こうして彼が少しずつ曲を作り上げている側で、本当は僕も三月末締め切りの原稿をやりたかったのだけれど、待っているとはいっても意識の八割ぐらいはカメラ越しの彼の制作風景に持っていかれているので、その借りた本の話と同じように、僕も何かを書くというのならこんなものしか書けない、というわけだった。

『トパーズ』は風俗嬢の女の子が主人公の短編が纏まったやつで、随分懐かしかった。続編の『ラブ&ポップ』は庵野秀明が映画化している。僕はそれを長く観たいと思っていたけれど、観たことがない。

観たことがある友人によると、細かい説明は忘れたけれど、90年代の渋谷のスクランブル交差点のシーンがあって、その奥にコーネリアスのアルバムの広告が出ていて、年代を感じた、と言っていた。

確かに90年代というか、渋谷系とミスチルが流行って、阪神淡路大震災とオウムと世紀末思想があって、トパーズのような宮台真司的側面も社会にはあって、でも経済の低迷は今ほど進んでいないから、空虚な底のない明るさとそれによる不穏さがある小説だった。

面白いのだけれど、読み進めていると僕が村上龍に無意識に影響を受けすぎているような気がしてきて、それもトパーズ自体はなんか村上龍のカッコつけと文章は上手いのに文学としては優れていない感じがあって、それが嫌な自分を見ているようで半分ほどで辞めてしまった。

それも戦後文学というムーブメントが終わった後の文学だからかもしれなかった。それでも風俗嬢たる主人公が相手の男の話を聞くという構造は初期の大江の作品を思わせるし、そのオブザーバーとしての主人公像は『限りなく透明に近いブルー』から始まって僕まで影響を受けている。

ふと目を上げてカメラ越しの彼の様子に集中していると、ドキュメンタリー撮影のオブザーバーとしての自分がいて、別にそれがどうというには彼の出す音が大きいのでよく分からないが、何か面白いことはありそうだった。

ともかく飽きて、ピンボールの方も読み返したのだけれど、最初の書き出しから初期ハルキの鼻につく感じがあってまた嫌になってしまった。

『風の歌を聴け』を僕の本棚から引っ張ってきてページを捲っていた友人が「お前の最初の小説みたい」と笑っていて、思い当たる節は沢山あったけれどムッとして、また読み返そうかと思っていた。

何故か友人宅には英訳版しかなくて、ピンボールを読み始めた。

最初は、色々な人から生まれたところについての話を聞く、というシーンから始まるのだけれど、それも村上春樹の初期のよくある話の作り方だし、土星生まれの友人が出てきたあたりで本当に読む気が失せてしまった。

その間にカメラの向こうの彼はリズムを作っていたところからアコースティックギターを弾き、それからエレキギターでスライド音を入れていて、僕もちゃんとRECボタンを押して、編集の大変さについて考えていた。

生まれたところか、と僕は思った。友人宅に来ると、小旅行のようなものなのだけれど、友人の生まれとか風景みたいなものに無責任に思いを馳せることになる。

僕の旅行の楽しみとして、旅行先の出来るだけ小さな図書館に行って、その地域の歴史資料など、それも出来るだけ小学生が調べ物で使うような簡単なもの、を読むというものがある。

それは父親の生まれの広島に帰省している時、勉強しに図書館に行って、勉強もせずに歩き回っていたら、戦争に関する資料が僕の地元の図書館の何倍も、小さな図書館なのにあったことに驚いてから、ふと時間があれば行くようにしているのだった。

僕はトパーズの何人かの主人公の風俗嬢、書きかけの原稿に出てくる人物たち、あるいはその生まれの街に行ったことのない知人の、生まれた街とその図書館について考えた。

今月末で終わるブラタモリをずっと見てきたせいか、大学受験で地理も選択していたせいか、その街について考えると、彼らの話を聞きながら一緒に歩いて、何かに思いを馳せたいような、そんな気がした。

初めて書いた小説にアジサイをモチーフとして使った。かなりアジサイについて調べた記憶がある。結局小説には使ったのか使わなかったのか忘れたけれど、アジサイは土壌が酸性かアルカリ性かで色が赤か青かに別れる。それがどちらかどうかは忘れてしまったし、調べるには意識はカメラの向こうに集中しているので分からない。

その彼らの街には何色のアジサイが咲くのか、それを知りたいような気もしたし、そこまで他人に踏み込んでいくには随分と勇気が必要な気もした。

そこで目の前のカメラの向こうの彼に目を向けると、オートチューンを使って何やらしている、彼曰く他人に監視されながら作業すると随分捗るらしく、僕が頭がおかしくなりそうなぐらい繰り返し聴いているフレーズは徐々に完成に近づいてきている。

ドキュメンタリーは対象との距離感をどう取るかが非常に重要で、内容にも画にも関わってくるのだけれど、踏み込む勇気も必要だから、彼には彼の生まれた街やアジサイの色を聞いてもいいのかもしれない、と思いながらも、映画学科の課題のドキュメンタリーで、住む街のアジサイの色がどうだから、とか言っていたら面倒なことになりそうなので辞めることにした。

音出しは夜遅くは出来ないので飯も食わず作業をしていて、時折煙草を吸う以外は話してもいないので、彼は腹が空いている方が捗ると言っているが、僕は不必要なマルチタスクと空腹で随分疲れていた。

目の前の彼は「俺って天才なのかもしれない」と呟いていて、僕は今頃新宿の繁華街を歩いている2020年代の風俗嬢の生まれた街のアジサイ、この始まりかけている春の終わりに降る梅雨のボヤけについて考えながら、それも何か不必要な暴力的想像に思え、昼はマクドナルドを暴食したけれど、夜はラーメンを食べたいと思っていた。



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