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『我々は生命を創れるのか(講談社)』 藤崎慎吾


生命とは何かを定義しようとなった場合、
〜中略〜
近年ではこれに「進化」する、を加えるようになっている。


生命を定義する上で、「進化」というのが入っているのは興味深いです。

最近ぼくは、「進化」や「アップデート」という言葉に敏感になっています。
長い生物の歴史を見ても、
今生き残っている種族は皆
変化に対応してきた、つまり「進化」してきたから生き延びているわけです。

このことはもう少し短いスパンで考えても適用されると思っていて、
コロナウイルスで全員が否応なしにライフスタイルを見直されている今、
この変化に対応できるかどうか、つまり「進化」が問われています。

いつだって「進化」したものが生き延びてきたわけですから、こ
のことを常に頭に入れてアップデートしていくことが重要です。



〜中略〜
いちいち「生命とは何か」なんて、考えたりしない。
初めて「死」と直感できるものにでくわすまではー。


2年ほど前、ぼくは「死生観」についてひたすらに考えていました。
その際そのことをゼミの担当教授に話したところ、
「生死について考えるということは、他のやることが欠けているからだ。」
という言葉をもらいました。
ここでの「やること」というのは、
食べることや歩くこと、趣味や仕事などごく普通のなんでもないことです。

ここで引用文に戻りますが、
ぼくはその時身近に「死」を感じているわけではありませんでした。
ただ自分で考えてただ自分で悩みこんでいただけでした。
ですからこの一文はあまり腑に落ちていません。

たしかに人間は生きているのが当たり前ですから、
その根本を考えるなんてことは日常ではないでしょう。
しかし
ぼくのように特にこれと言ったきっかけもなく死を思うこともあるはずです。

これ以上話を広げられるわけではありませんが、少し引っ掛かったので書き記しておきます。



普段より短くなってしまいましたが、これで締めようと思います。

本書は題名こそ「生命を創れるか」となっていますが、
結果的には、「生命とは何か」というような前提を問うものになっていました。
それもそのはず、
「生命を創れるか」というのを議論する上で
何を完成形、つまり何を作り出した生命とするかが鍵になります。
こういうことから
本書は最終的に「生命とは何か」をさまざまな観点から考察していました。

少し本題から脱線しているように思えますが、
これはとても重要なことだと思います。

目標設定をする前に
その目標の前提が成り立っていなければ議論を進められませんから、
一度大枠は置いておいて細かい部分を見直していくということは重要です。

最近ぼくは日本社会の不便さを感じることがあります。

例えばショッピングモールで働く従業員の出勤。
おそらくほとんどの店舗で、従業員出入り口というものが設けられていて
従業員は必ずその出入り口を通して出勤するよう求められていると思います。
そしてその出入り口はたいがい建物をぐるっと回った場所にあります。

ぼくはこれがとても不便だと思っています。
従業員が必ずしも従業員入り口を通る必要はないと思います。

確かに
オープン前後でそこしか空いていない場合は通らなければならないと思いますし、今のご時世検温をする機会が増えていますからそこでチェックを受ける必要があるのもわかります。

しかし特にこれと言った理由はないはずです。
「従業員とわかるように」とか「客とのトラブルを避けるため」などという理由があるのかもしれませんが、ただのこじつけでしょう。
ぼくは
店舗側が「ルールだから」という主張の一点張りでそれを強制するというケースもあると思っています。

そこで思うのは、
ルールだから全員に強制させるというのは議論の余地がある
ということです。

本書で前提を見直していたように、
ルールを制定している前提の意味を見なす必要があるということです。

もちろんある程度の規制のためにルールを設けているわけですからルールは必要ないというわけではありません。
しかしあくまでも人が制定したものですから欠陥がないとは言い切れませんし、時代が変わって通用しなくなるということもあります。

何でもかんでもルールの中に丸め込むのではなくて
そのルールの意味を考え、なぜそうする必要があるのかという前提条件を考えることも重要だと思います。


このようなことが日本には多いなと思い、
不便を感じることがあるということでした。

日本社会の風潮として
人にも不便を強制させる、苦労をすることが美徳
というようなことがあるので、
知らず知らずのうちに自分も他人に強要してしまっているかもしれません。

一度見直してみるのもいいかもしれません。

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