見出し画像

家は身体のエクステンション

カポエイラの体験に行きました。

うはー、楽しすぎる。
身体ちゃんがYee-hawとか言っちゃって大喜び。

一晩明けて、全身うっすら、足の裏までつづく筋肉痛が心地よい。
朝食より前にカーテンの洗濯を仕掛けている自分に気づいて驚愕。レースカーテンはともかく、遮光カーテンを洗濯するのは、おそらくこの家に住んでから初めて。なぜ今日?

カーテンの洗濯という珍しい行動があまりに自然に行われたので、不審に思ってここしばらくの一連の行動分析をしてしまいます。

カーテンの洗濯はどう考えても今日の体調に関係していると思う。うっすら筋肉痛とこの流れの良いような爽快感が、普段なら面倒くさいと感じる行動、やることが望ましいがプライオリティは低い行動の実行に影響していないわけがありません。さらに、カポエイラはダンスのWSと違って、精神的に追い詰められる笑ことがないので、無責任に楽しい一辺倒。気分もよいのです。
うん。カポエイラだ。普段しない動きを、思う存分行ったことが影響しているはずだ。

では、もうすこし長い期間を振り返ってみましょう。

ここ数週間どうしてもカポエイラがしたくなっていた。
動画を見て真似したりしていたのですが、どうにもこうにも収まらなくなって、体験に行ったという流れです。

なぜカポエイラ?

思えば、4月に野口体操をちょっと学んでから、日々の身体メンテナンスに取り入れています。はやいものです。もう半年になります。
野口体操は、少なくとも初心者がする野口体操は、おだやかーでゆるやかーな動きばかりなのですが、これまたなぜか、直近2か月ぐらいは自分の瞬発力が上がってきているのを感じていました。
欲が出て、というか、身体ちゃんからの要請があり、「私ね、もっと瞬発力あげて見せられるからやってみて」と語りかけられているようでした。

野口体操は身体全体を使って自然のままに行う運動です。身体の重さを使って、物理法則を乗りこなす方向性を持っています。カポエイラもその方向性にあるものだと思います。そして、野口体操より、瞬発力や力にフォーカスがあります。

まあ、どんな運動もきわめれば物理法則の利用になっていくのでしょうが、カポエイラは目に見えて重さやテンセグリティを使う種目だと思います。何と言ったらいいのでしょうか、例えばバレエも、結局はテンセグリティを使わないと突き抜けられないのでしょうが、演者によるコントロールが鑑賞者に見えるように設計されているような気がします。
いがらっしは、身体全体をつかい(cf. 野球やゴルフ)、かつ、コントロールが鑑賞者に見えないデザインが好きなのだと思います。アフリカンダンスも舞踏も野口体操もカポエイラも、その身体を持つ人がコントロールをしないわけにはいかないのですが、鑑賞者にはそのコントロールが見えにくいデザインの種目なのではないでしょうか。

話が横滑りしてしまった。

そう。身体と家の話がしたかったのです。
無理やり戻しましょう。

身体ちゃんの「こう動きたい」という要請に応えることは、おそらく身体ちゃんを大切(尊重)にすることになる。それは鏡のように反射されて、いわゆる「自分」を大切にすることとなって自分に戻る。それを一回転すると、一歩進んだところで、次の射影が起こる。今朝のいがらっしのケースだと「カーテンの洗濯」。
自分では意識していなかったけれども、自分の住環境、自分の身体に近接する空間を整えようとするのは、この営みの一つなのではないでしょうか。

野口体操は身体を――解剖学でいうところの骨や筋肉以前のゾル・ゲルとしてとらえるところから始まります。
4月、ゾル・ゲルから始まって、いま9月、身体の外への働きかけにまでたどり着いたのかもしれない。まるで生命が発生して世界を獲得していくように。ここでは一般的な理解のために「身体の外への」と書きましたが、私という全体にとっては、身体の外ではなく地続きなのだろうと感じます。

野口を引用したい。
生きるということの中で自分自身の「まるごと全体」が、オバーリンの生命の起源における「コアセルベート」の未分化・全体性のあり方とそっくりそのまま、かさなりあい融け合ってしまうのを実感するのである。
(野口三千三 『原初生命体としての人間』 岩波現代文庫2003 p.iii)

私たちは「個」という膜に閉じ込められて、お互いの視点からひらかれる世界には入ることができないけれども、それぞれの「個」の世界は無限なのだと思う。
この矛盾のようなありかたを、そのまま受け入れたい。

この記事が参加している募集

運動記録

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?