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能の動きはテンセグリティ

お能のヒミツを暴いてやったぞ。
なーんて。思い込みかも知れないんですが、いがらっし的には発見だったので記録魔の面目、記録しておきます。

発端は先週、金剛流の発表会を見に行ったことにあります。
以前、モスクワを拠点とした桂勘さんのお能のオンライン稽古に参加したことがあり、お能の中で唯一、紅葉狩だけはかろうじて舞える…いや、動きを知っている程度ですが、まあ、雅語として「舞える」いがらっし。
その際に会場にいらした勘さんと少し会話し、「こどもには摺り足を教えないのだが、このように(肘を張った姿勢をみせて)していると、そのうち摺り足になってきます」とうかがいました。

へえ、そういうもんなのかーと思い、日々、肘を張って歩き、摺り足になってくるのを待ちます。

あ。繋がったわ。
自分の足の平、内側が十分に使えていなかったことに気づける瞬間がありました。同時に、脚の内側がしっかり働いてくれるようになりました。(この前提として、最近大腰筋がピンポイントで感じられるようになり、上半身下半身の接続が良くなっていることがあります。)
ほほう、こりゃ、摺り足にもなるわー、と。

その後も何段階も発見が訪れ、今朝は、ちょっと大き目な発見です。

能の動きはテンセグリティの極みだ。
繰り返します。
能の動きはテンセグリティの極みだ。

肘を張っているのも偶然ではありません。張っていないとテンセグリティが使えないのです。
いわば腕に操縦され、歩行になったり体の向きが代わったり。逆もまたしかり。歩行や身体の向きに操縦され腕の位置も決まる。

このことから芋づる式にいろいろ理解できます。
勘さんがおっしゃる「舞は空間をはこぶこと」というのは、まさにこれです。身体そのものが主体なのではなく、様々な力の掛け算の結果で身体が動かされているだけです。いってしまえば身体もある種の空間。偶然にも質量があり、他の部位と繋がっているので、他の部位の位置や角度と影響し合って動いています。

例えば「ヒラキ」。形だけ説明するなら、足が三歩後退するのに併せて、腕が閉じ・開き・下がる。
でもテンセグリティ的に説明するなら、腕が閉じ始める=身体より前に出るので、前傾や転倒を防ぐために足が下がり始め、ついでにもう一歩下がると、後傾や転倒を防ぐために腕は開き、3歩目に足が揃えば腕でバランスとる必要がなくなるので、腕が下がる。
ということは、実は、足と腕の動きは同時ではないのがいいのではないでしょうか。0.02秒ぐらいおくれてついていく感じ。
あーらふしぎ。主体性で動いているのではない身体が現れます。(当社比)

勘さん曰く「お能の先生は説明しないで、「自然に」といいます」とのことですが、「自然に」はケチして教えないというわけではないのかもしれません。
自然に=テンセグリティに従え、なのかもしれません。
なーんだ。実は懇切丁寧なのではないか!
(蛇足ですが、従うためには赤ちゃんのように意識による身体のコントロールを知らない状態になるか、身体の状態に異常に敏感になって意識的に従うかのどちらかしかないように思います。後者の状態を獲得するのに数十年のトレーニングを要するのかもしれません。)

ほんと、自我とかどうでもいい。
表現とかもどうでもいい。
物理法則に従うことを極めていったら、自分に与えられているこの身体の唯一性がかってに前面にでてくるのではないでしょうか。手の長さ、身長、太り具合やせ具合だけでなく、筋肉の形や腱の硬さや柔らかさ、近頃食べた物、経験、心の状態に影響されている神経系の働き、すべてすべて、今この瞬間の私という個体の唯一性がでてくるはずです。それは私の吹けば飛ぶような自我なんかをはるかにこえた、地球45億年の変化の最先端の一つの具現化だと思います。

みなさま!今日もご自身の存在をお大切に!

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