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善という半神【Demigod】

善と規律
善は形而下においては規律であり、「~せよ」「~してはならない」という「命令」と「不可能性(禁止事項)」の定義群と体系で表現される。   命令に虐げられ不可能性を押しつけられたものは反逆と可能性を求めるが、それゆえに悪と呼ばれる。

つまり悪は善の規定に対する反逆のため、主体的内容を持たず反動的従属物としてしか存在しないという側面をもつ。
(後述するが、悪も「~せよ」「~してはならない」命令と不可能性を  他者へ押しつけることがあるので善が反逆を起こし反動的従属となることも勿論ある)
善の規定内容が空疎であるほどに反逆の価値も失われていき、悪は陳腐なものになる。

そして、真・善・美の形而上学的価値のうち、
善悪の平面ではなく真偽あるいは美醜の平面から「反逆と可能性」を   求める者が現れる。
それは善の側からすると悪としか捉えられない。

善みずからは真・美から「偽りの善」「醜いセンス」として捉えられる可能性に恐怖している。善は真・美の裁定をときに悪としてしか把握できないとはそういった意味だ。真と美もお互いを裁定し矛盾を突き付けあうことがあろう。美しい嘘があなたを魅了するならば。

善は、生存と幸福の機会をあまねく広める秩序として求められているのだから、あるものを犠牲にして別のものが幸福を得るさいに、どちらの生存と幸福が有意義かを判断しなくてはならない。それは容易に真・美の基準と対立する。

それどころか、その善の判断基準(どちらを犠牲にするべきか)自体が悪をはらんでいるとも言える。「善がはらむ不可能性という悪」に不可能(犠牲死)を押しつけられそうな者が反逆を起こすのは必然である。      善悪のジレンマは善が悪を内包し、悪が善を内包することで余計に複雑な ものとなる。

「真・善・美」と「自由=権力」の関わりは同じではない
善である「命令」と「不可能性」を貫く別な平面が存在する。それを自由と呼ぶ。命令に従い、逆らい、可能性を求め、逆説的に不可能性を選択しうる自由である。自由を行使する意志と具体的実行性のことを権力と呼ぶ。

真と美には命令できない。拘束もできない。
真実が自由でないと言われるのは弾圧によって表現者の生存が脅かされたときであり、美の表現が自由でなくなるときも同様である。
生存や幸福といった善を媒介にすることで、権力はその行為者に影響を与えることができるが、脅かされているのは真・美そのものではない。それを表現しようとする人間の生存である。表現の実行は阻害されうるが、真と美には触れえない。
ゆえに形而上学的価値である善のみが、形而下の、自由を行使する権力 (パワー)に脅かされうるのである。                   いわば善は完全な神ではなく「半神」なのだ。
権力によって悪法は法となり、正は不正として退けられる。


よって、実際に起こっていることとは
大きな権力を持った善が小悪を圧殺し
大きな権力を持った悪が小善を圧殺する。

ということである。

ところで先ほど、善は悪をはらみ、悪は善をはらむという視点を提示した。

つまり
大きな権力を持った(善と悪)が小悪を圧殺し
大きな権力を持った(悪と善)が小善を圧殺する。

という事象が地上では起こっている。
               (実に常識的な結論になってしまった)

善悪の基軸は単体では存在せず、自由を行使する権力といつも一体化していることが両者を混同させるのだ。よく言われる「力こそ正義」とはその誤解の典型的なものである。
規律の内容の歴史的・地域的・個別的恣意性と権力の強弱が、さらに善悪と権力との境をあいまいに、分かりづらいものにしている。

我々が法や憲法といった地上で目にする規律(命令と不可能性)とは
まるで粘土のように
大きな善(多数の生存と幸福)と、
少しの悪(少数の犠牲死と不幸)と、
それを順守させる権力が
ぐちゃぐちゃに混合されてできた塊なのである。

地上の人々にとって一番大切なのは概して善(生存と幸福)であるから、真と美よりもずっと重きを置かれている。善は、つねに生存と幸福という弱々しい人質を取られている。
真と美はときに人を傷つけるため、相対的には軽んじられている。よってそれらを規制して人々は善悪を要求するのだ。
管理社会において称揚される、                    いわゆる「倫理主義・生命至上主義・幸福な日常」である。
           (ふたたび、実に常識的な結論になってしまった)

よって「善人は無自覚の悪をはらみ」、「偽りの」基準を持ち出し、「醜いセンス」で多数派の「権力を振るう」という現象が起こるのである。   よく言う俗情とはそのような組み合わせのことだ。小さな、ちいさな善良なる半神の信仰者たち。無数の、ともがらと己自身の肉を相食むものたち。

その俗情に背を向ける人間は
己の神として真と美をかかげるも、
それらの教義が互いに矛盾しうることを知っている。
真や美を地上に顕現させるため自由を行使する権力を志向し、
そのあとで半神たる善悪の顔を睥睨し意図的に踏み越える。
ときに自他を傷つける「双子神の信仰」をもつ者になるだろう。
その信仰は己が意志によって堅持される。
分かりにくいが単なる「偽・悪・醜」の獣物たちとの違いが
                       確かに存在するのだ。

俗情たちの繁茂する形而下において、その違いは峻別されず、
双子神の信仰者は「悪人」「悪党」と呼ばれている。

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