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「勝手にふるえてろ」映画評

今日はブログ更新ではなく、久々にこちらで映画評を書きます。

今日は「勝手にふるえてろ」について書きたいと思います。

◼︎勝手にふるえてろ(2017年12月23日公開)
監督:大九明子
脚本:大九明子
原作:綿矢りさ
出演:松岡茉優、北村匠海、渡辺大知、石橋杏奈、趣里、古舘寛治、片桐はいり

あらすじ
一見すると普通のOLであるよしか(松岡茉優)、しかし彼女は24年間彼氏なし、おまけに中学生の頃からの憧れの男性一宮(通称イチ、演じるのは北村匠海)に想いを寄せ続けている、少し変わった女性なのであった。
しかしイチと話したのはたったの一度だけ、それ以外では妄想の中で彼を召喚し、自らの思いを保ち続けるといういわゆるこじれ女子。
対してそんな彼女に想いを寄せる男、会社の同僚である霧島(通称二(に、です。数字の「に!」)演じるのは渡辺大知)はよしかに猛烈なアタックを仕掛ける。
二からの不意打ちな告白、憧れのイチとの再開、妄想に生きる彼女の現実はどのように変化していくのか…!?

ある時から映画に関してはnoteではなくブログで書くようにしていたんですが、この映画に関しては是非ともnoteで書きたいと思いました。

ん、なぜかって?

なぜなら私、この映画にガツンとくらわされてしまったからですよ!!
もう心をガシッと!!鷲掴みにされて、もうぐるんぐるん振り回されて、ドリャーーー!!とどっか遠くにぶん投げられた気分でしたよ!!
だからもう今気分は海外です。今私は海外にいます海外まで飛ばされました。

はい、まぁ普通に日本いるんですが。
そんなこんなでブログはあんまり、というかほんとんど見られていないので、どちらかと言えばまだ見てもらえるnoteに書いてみようと、ほんでたくさんの方にこの映画を見てもらいたいと思ったんですね。

しかもですね、かなり勝手な見方、というかほぼ偏見なんですが、この映画はnoteで何か書いている人なら絶対好きだと思うんですよ。
なぜかって?だってnoteってやっぱりあれでしょ?自分もそうですけど周りの人に
「自分noteやってるからさ!!是非今度見てみてね!!」
なんて人あんまいないですよね?一部のインフルエンサーとかメディアにちらほら顔を出す人くらいですよね?みんなにnoteやってること言えてる人って(そうであると願っている。)

そういう一部の人以外はやっぱり多少なりともこう、鬱屈したものを抱え込んで、何か一歩を踏み出したいんだけど踏み出せない、満たされていないわけじゃないんだけど、めちゃくちゃ有名になりたいとかそんなのではないんだけど、「何か」したい!!「何」かしてみてーんだよ!!
みたいな人が多いですよね?
そんな時に誰かのツイートとか、あるいはネット広告で

「note ――つくる、つながる、とどける。」

とかいうぼんやりした素敵みのある雰囲気に騙された人ばかりですよね?
かーーっ!!巧妙ですねぇぇnoteは!!
(すみません、普通にめちゃくちゃ好きだし、良いサービスだと本気で思っています。)

とまぁとにもかくにも私がnoteにそんな「満たされない何かを満たしたい」と思っているユーザーが多いと感じている事自体は一応は事実です。
そしてそんな方にこそこの映画を見て欲しいのです。
もう途中からは自分ごとにしか感じられなくなる、そんなこの映画を見て欲しいのです。

妄想に生きる変わった女、痛い女、こじれた女、よしか

主人公のよしかは中学の時に憧れていた同級生のイチを24歳になった今でも想い続けています。しかも話したのはたったの一回。

しかしその一回は彼女にとって忘れられない思い出を帯びることになったのです。
彼女が勇気を出してイチに話しかけ、あるアドバイスをするんですが、よしかはイチがそのアドバイスをずっと守り続けていたことを知ります。
その事実を、それが彼とよしか以外誰も知らない、秘め事の絆になっていると信じ続け、その事を何度も脳内で再現し続けていました。

言うなればよしかはその過去だけを見て、現実の男には目もくれず、若き思い出の中で、妄想の中だけで生き続けていました。

よしかが過去の思い出以外に興味のあることと言ったら絶滅した動物たちのことをひたすらチェックし続けることくらいです。

しかし決して世捨て人のように生きていないのがこのよしか。
彼女ははた目にはこれまで書いたような人間ではないようにふるまいながら日常で普通に生活しています。
なんなら会社の同僚のくるみ(石橋杏奈)にはイチへの永い片思いを打ち明けているし、同じく同僚の二(渡辺大知)には好意をよせられる、「女性としても魅力のある人物」として振舞えているのです。

私見ですが、これは劇中でよしかが愛してやまないアンモナイトが自らの身を守るために異常な形に進化した形状、いわゆる「異常巻」と似ているように思えます。
彼女が妄想の中に生きてしまいながらも別に日常生活にはなんの支障もなく生きていけている。
頭の中の異常性を日常には持ち込みすぎない、けど生きる目的や方向性それ自体は頭の中の異常性の基に舵をきる。
そんな見る人によっては特殊な生き方に独自の進化をしたんだなと思うと、こりゃなかなかどうしてアンモナイトの異常巻じゃないかと、、、そう、、ならないですかね?ならないか、、、

でも個人的には、決して周りの人から見るよしかではなく、つまりは私達(観客)が観るよしかはとても自分に重なるのです。
彼女が周りから普通のように見られているように、きっと私も周りからは結構普通の人間に見られていると思います。
けれど私も頭の中ではいつも妄想や、過去に縛られてばっかりいます。

気になるあの子と少し話したこと(もう30歳です)
さっき会社の可愛い子と目があったこと(話したこともない)
きっと何かで有名に有名になるはず(まだ何も始めていない)
寝る前にはいつも可愛い子といい感じになることを想像しているし
酔って風呂に入ると、有名になった時に受けるインタビューを想像して1人ブツブツと水に打たれています。

でも多くはないにしてもこういう人って割といるんじゃないかと思います。
注:上記の下三行は除く!!
だから私はよしかを見て、特別変だとは思いませんでした。
ただ思ったのは、痛くて、こじれている女だなと。

そしてまた自分も、痛くて、こじれた男なんだなと思ったのです。
だから彼女の日常はとても痛々しくて、見ていられなくなる部分も多くて、見ていて結構辛かったです。

でも、だからこそ私の心はガシッと掴まれました。
だからこそこの映画に異常なまでに感情移入してしまったのだと思います。

何の確証もない可能性に全てを賭け続けてしまう
そしてそれが決壊する時、人は…

よしかは、何も全く根拠のない片思いを続けていた訳ではありません

先述した
よしかのアドバイスをイチが守り続けていた
この事実はおそらく彼女の中学校時代の最大の自信であり、自分の中での大きな拠り所になっていました。

そしてもう一つ、彼女には忘れられない思い出があります。
それは体育祭での閉会式のことです。
夕暮れの体育祭の閉会式、生徒達が体育すわりで座り、校長か教頭かの話を聞くというきっと誰の頭の中にも残る風景の中。
よしかの後ろにはイチが。
不意にイチはよしかの体操着をクイっと引っ張ります。
そしてイチはある一言をよしかに語りかけました…
しかし
この一言がよしかをこの日に永遠に留めてしまいました。

よしかは片思いをしていると、ずっと書いていましたが、彼女は片思いとはきっと思っていなかったと思います。
向こうはきっと私の事を想っていない、そう思いながらも、そう思えない理由があったからです。
それが、イチがよしかのアドバイスを守り続けた事、そして夕暮れの体育祭の閉会式での出来事です。

たったのこの二つです、イチがよしかを好きだという確証なんてこれっぽっちもないこの二つの出来事、この二つだけでよしかの時間はそこで止まってしまったのです。

ばかな!?なぜお前にそんな事がわかる!?

そう思われる方も多いでしょう!!でもわかるんです、なぜなら

私もそうだから!!

そうです、私もそうなんです。
と言いましても私自身が中学の時の片思いを今でもしているという話では全くありません。
私が言いたいのは

何の確証もない出来事に、勝手に可能性を感じ
その可能性に賭け続けてしまう人間が、この世にはいる!!

ということです。
あの時こうだった、あの時あんなこと言ってた
そんな些細な、きっと相手は何ともおもっていない、そんな一瞬一瞬に
時折なぜだか可能性を感じてしまうのです。

そしてその可能性に寄りかかる、そこのみを信じてしまう

なぜなら
それしかないのだから!!
そんな些細なことしか、自分の自信を保てるものってないのだから!!

だからすごくよしかの気持ちが分かるんです。
アドバイスを守っていたこと、体育祭での一言、それだけでよりかかる可能性には十分です、自分の自信を保つのは十分なんです、自信というよりは安心と言ったほうがいいかもしれませんが…。

可能性を絶望に変えるか、可能性のまま残すか

よしかはひょんなことからライトな死の恐怖を味わい、志半ばで死ねん!!と、イチに再び会うことを決心します。
海外に留学した同級生になりすまし、地元で同窓会を企画。
憧れのイチと久々に再会したよしかは勇気を振り絞って、東京でも再び皆で集まる事を企画しました。

彼女は自分が信じていた可能性を試すための一歩を踏み出したのです。

しかし、よしかは自分の可能性の正体を知ることになります。
それは悲しい結末でした。
(でもまぁ、見る人によっては
「え、別にいんじゃん?ショック受けるの分かるけど、そんな最悪の状況ではないよね?」
程度ではあるのですが…)

自分の中で勝手に可能性だと思っているもの、はてこれは何なのか
私もたまに冷静にそんなことを考える時があります。

いつもは寄りかかって、頼りにしていた可能性は、そんな時ほど急に脆く感じます。
うわ!!いつも自分はこんなものにしがみついていたのか、なんでこんなものに可能性を感じていたんだ!?根拠なんて何にもないじゃないか!!

でも実はその可能性の脆さ、壊れやすさは自分が一番よく知っているのです。普段は可能性の脆いところは見て見ぬふりをして、安心したふりをしていたことに気づいてしまうのです。

きっとよしかの場合、悲しい結末の後にそのことに気づいたのではないかと思います。
だから、事実としてはまだまだ最悪の状況ではないけれど、
「自分の信じていたものの脆さ」
「それを信じていた自分の愚かさ」

に無性に悲しくなったんだと思います。

可能性を絶望に変えるか、可能性のまま残すか

可能性が絶望に変わるのは、こりゃかなりメンタルにきます。
結構心に穴が大きく開いて、埋めるのも大工事になります。

逆に可能性のまま残すのは、精神安定上とても楽です。
自分はそうやって、可能性を可能性のままにしておく事が多いです。

でも最近はそれがだんだんとモヤモヤに変わる事がわかってきました。
可能性はずっと可能性のまま、それは何も起きないという事です。

何も起こらない、この先ずっと、、、
最近はその恐ろしさにようやく気づき始めました、、、

っと、映画から脱線してしまいましたが
とにもかくにもよしかという、可能性に寄りかかり続けた女性、というより人間、キャラクターがまさにこれまた自分のように思えて
分かる、分かるよぉぉ、と思いながらイタい自分を見るヒリヒリ感こそが、自分がこの映画にのめり込んでしまう要因だと思うのです。

「勝手にふるえてろ」の映画としての魅力

かくして生涯を賭けてきた恋に一旦の終止符が打たれたよしかでしたが、
そんなよしかに想いを寄せていた二との距離がぐぐっと近くなっていきます。

「勝手にふるえてろ」にはよしかのような妄想に生きたきた人間と私自信が異常な程シンクロすることでの感情移入の心地よさ。
そしてそのイタさを痛烈に感じるという被虐的な謎の心地よさもあります。
しかし同時に
「妄想の果ての現実にさす、一筋の美しい光」
も感じられる映画になっています。
つまりはカタルシスとそこに至るまでのプロセスという、映画ならではの心地よさです。

特に失恋の後の二との卓球デートシーン。
ここは小説では表現できない映画的な表現が魅力的です。

2人だけに流れる特別な時間
あれ、この人のこと…

そう感じる瞬間が、見事に語りすぎない表現で鮮やかに映し出されます。
なんというかこう、気持ちが少し揺れる瞬間が、その一瞬が切り取られたような表現で、本当に見事です。

ピンポン球のカコーン、カコーンという音の使い方も良いです。
たまらなく愛おしい時間が流れている。
ここを演じきった松岡茉優、渡辺大知の演技、製作陣の演出は素晴らしいです。

そして何よりもラストシーンの最高のカタルシス。
もうほんっと最高でした。

激しく降る雨の中

自分のパーソナルな部分、つまりはおそらく誰も招き入れた事がないであろう自分の部屋に、文字通り一線超え踏み込まれる瞬間。

お互いをさらけ出し一戦交える男女の舌戦。

エモーショナルな中に散りばめられた少しの笑いと、可愛らしさと、男らしさ

初めてイチでも二でもない彼の名前を呼ぶ時
彼の雨に濡れたワイシャツにある物がポトリと落ちる。

それはじわーっと雨に染まる。

彼の愛に染まるように
彼女の気持ちのゆらぎを確かめるリトマス紙のように



(決まったぁぁ!!!)
自画自賛の落としっぷり!!
何が言いたいかっていうと、もうつまりは最高って事です!!
語彙力的にそれしか出てきません。

なんというんですかね、感情をもろに出している2人が顔でも、言葉でも相手に想いをぶつけるシーンなんですが、感情を出して、もろに言葉にしているのに叙情的というか、もう言ってる事以上に色々伝わってくるんです。

というよりもはや勝手に自分で色々足しちゃってるんです!!
足しちゃだめなんですけどねもちろん。
ここもですね、なんかすごい共感できるんですよ、よしかにも二にも。

なんで喧嘩してる2人を見てこんなテンション上がるんだろうと考えたんですが、多分これは2人がお互いに初めて言いたい事思いっきりいうからだと思うんですよ。
もちろん2人とも怒ってるんだけど、同時にこう、やっとちゃんと話できる!!みたいな。

君の好きなとこも、嫌いなとこも、怒りにかまけて全部言っちゃえる!!
怒ってるんだけど超楽しいんだけど!!なにこれ!!

みたいな、アングリーズ・ハイみたいな現象だと思うんですねこれ。
いやー、もうね、良いんですよねこれが!!
自分もなんかたまに、怒りとか、あるいはかしこまって想いを伝える時になぜだかハイになっちゃって、想っていた以上のものだせちゃう、伝えられちゃうみたいな一線超える謎な時がたまにあるんですよね。

といった感じで、最終的に共感みが強いみたいなまとめ方になっちゃいましたけど、なんにしても先に挙げた卓球のシーンや最後の舌戦シーン等々、やはり映画全体で見てもエンターテインメントとしてもめちゃくちゃ楽しめる作品だと思います。
あとね、最後のシーンの音ね。あの音ここでもつかいますかぁ!!っていう音ね
しびれます。。。

松岡茉優という神

そしてやっぱりね、これ何で最後に言うんだって感じですけど役者陣が素晴らしいです。

特にやはり松岡茉優さんですよ
もうですね、劇中で彼女が言うセリフですが神!!ですよ神!!

基本は世間に対してはアンニュイでありながらも、内に秘めた異常性とか(もちろん個人的には異常とは思っていないけど)、他人に分かられたくないようでいて理解されなすぎるのも嫌なとこ、とかとか。
このよしかという人間の、人間としての面白さがこの映画の面白さに直結するこのプロットにおいて、しっかりとよしかの面白さ(ひいては悲しさとか怒りとかも全部である)を表現できてしまっている。
きっとこの女優でないとこの映画は成立しなかったんじゃないかと思わせてくれます。

まぁちょっと思うのは、この設定のわりにはルックスがつじつまあってなくないかなとは思う。
でもまぁそれでこそ、松岡茉優が可愛いからこそ自分がこの映画好きな部分も多分にあるのもまた事実。

個人的にはこの人の声がすごい好きですね。
楽しそうな時の弾むような声
悲しそうな時の枯れるような声
そして感情が爆発した時の、100%内側の自分が出てる感じ

まさによしかという人物をしっかり体現している神がかった演技だと思いました。

あとちなみに映画の最後にまぁもちろんアレするわけですが、アレですね、アレ。これみよがしにエンドロールでも流れるんですが
アレをする時にこう、よしかから行くんですよ。
でもよしかは実は誰ともまだ付き合った事がないというキャラクターなんですね、だからこそのあのぶつかって行く感じね。あれも最高でした。
あの猪突猛進感も含めて最高の演技。
あと音ね、触れ合う時の音がまた素晴らしい音!!
あの速度で行った時のリアルな音感がたまらなかったですね。

あともう1人、相手役の渡辺大知さんも素晴らしかった。

最初は本当どうしようもなく嫌いできもいと思っていた二をあそこまで持っていく力、すごいですね。
あの役の嫌なやつじゃないんだけど、なんかなぁ、なんか無理
みたいな感じがもちろん脚本の力もあると思うけどこれまた見事に体現している。
特に顔の演技がすごい好きです。
苦々しい表情の演技が特に最高です、悲しさ、哀しさ、図らずも両方出てしまう感じ。なぜだか柳沢慎吾さんを思い出しました。
ふぞろいの林檎たち(あんまり見た事ないけど)をリメイクするなら西寺実役は是非この人にやってもらいたい!!

ちなみにエンディングで流れる「ベイビーユー」は彼の本職である
黒猫チェルシーというバンドの曲です。
この曲もカラッとしていて且つ少しビターな感じですごいよかったです。

はい、というわけで長々と書いてしまいましたが、とにかく自分の中では
おそらく忘れられない、これからも何度も見る作品になるだろうと思います。(事実この一ヶ月で5回は見ました。)
最初にも書きましたが特にnoteをやっている方、相当失礼な偏見まじりですが結構バシッとハマる方多いと思うので是非見てもらいたいです。

一応予告編貼っておきますね。

大九明子監督の次回作ももちろん期待ですが、この人の他の作品も是非見て見たいと思います。

それでは!!

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