読書記録 姜尚中と楽しむ夏目漱石

この本は名言の宝庫です。心を掴まれる言葉にあふれています。


ある人間が、ある環境に放り込まれ時に その中でどうもまれ、どのように変わっていくかを描いている。


これは「三四郎」「それから」「門」、いわゆる漱石の前期三部作を読む視点として語られているのだが、自分の人生に対して、どうもまれて、どう変わっていくか見つめる視点は、ただ悩んでいる人には持てないものだ。

世間の荒波に溺れて、意気消沈するのと、そこにもまれて変わっていくことを見つめるのには、雲泥の差がある。


「三四郎」の主人公。小川三四郎は、汽車で熊本から東京にやってくる。

漱石は「汽車ほど個性を軽蔑したものはない」と、草枕の中で述べているように、文明が、人間を阻害していくことにいち早く警鐘を鳴らしている。

令和の時代を生きる私たちは、こうしてパソコンや飛行機やエアコンや、ネット販売、便利さを手に入れているけれど、個人が消費されているのではないか?本当の自分を生きているのだろうか?お金を尺度に物事を見ていないか?知識の量で人を見ていないだろうか?本当の人間の尊厳というのを考えて生きているか?

誰かの目を気にして自分を殺していないか?


「それから」の主人公の代助は、実業家の家に生まれ、帝大を卒業し、親から生活費を受け取って暮らしている。当時、こうした人間を「高等遊民」と呼んでいた。何事にも驚かぬ、死んだような男。30歳そこそこで死んでしまった彼を目覚ませるのは、ただ恋愛だった。

こんな設定を見ると、届かぬ恋愛の慕情に浸り、はたまた無力さをネットでのオナニーに浸り、街いく乙女を性欲の目で貪らんとする自分に何かを突きつけられるような気がする。

恋愛を通じて、頭でっかちが打ち砕かれて、人間的な感情が蘇ってくる代助の人生。

しまいには世の中が真っ赤になった。そうして代助の頭を中心としてくるりくるりと焔の息を拭いて回転した。代助は自分の頭が焼けつけるまで電車に乗って行こうと決心した。(「それから」より)

そう、私もこんなふうに世の中が真っ赤になる人生を生きたいのです。いい年をしているのだけれど、まだ年寄りではありません。私の人生はもう火が消えてしまっているのです。こんなふうに燃えていきたいのです。

私の人生は「電脳頭脳」を生きています。それからの代助が肉体の世界を生き始めたごとくに、私も汗を流す肉体の世界を生きたいのです。


「門」の主人公、宗助は、友人の安井から奪った妻、御米と所帯を持ち、罪悪感を抱いて暮らしている。二人には子供ができても流産をしたり、それは安井を裏切った因縁のせいだと考えている。ある時に、安井を紹介しようと言われ、恐怖に囚われた宗助は、鎌倉へと十日間の座禅修行に出かけるが、心が満たされずに帰ってくる。

こうした現実逃避感こそ、私の特徴でもあるだけに、ハッとさせられる。祈りの世界に救いを求めても、現実は変化しないことを悟るのだ。


この三部作の主人公に共通するのが、実存的な不安。

自分とは何者かを自らに問う主人公たち。

これに対して私は「自分の悩みとは何者なのか?」そればかりを追求しているように思う。

自分とは何か?自分の悩みとは何者か?

この二つの問いは、根本的に問うていることが違うのだかが、現代人にとってはより自分の悩み、自分の影に支配されて、自分が何者かまでは見出せない人が多いのではないだろうか。かく言う自分もその一人であるが。

 

「それから」の中には、自ら心臓の鼓動を変えようとするシーンが出てくる。今、私たちは瞑想では、呼吸に意識を向けるが、心臓に意識を向けるとは、まさに肉体の働きに目を向けることである。意識をどう働かせようと、心臓の鼓動は肉体が生きている証拠であるのだ。

いくら考えても、心臓の動きを止めることはできないのだ。心臓は命として、鼓動を打ち続け、その鼓動こそが私たちが生きていくリズムかもしれない。つまり、私たちがいくら考えて人生をなんとかしようと考えるよりも、すでに、私たちの人生を生きてくれている肉体という存在を意識することで、自分と和解することが大事ではないだろうか?

私たちは、考える以前に、もうすでに生きているのです。



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