名物・丈木(七・終)
前回から
丈木のような史上証明済の利刀なら、光高の眼前不意に猪突をくらっても、容易にその首を両断することができるだろう。しかし利常は許さなかった。丈木は大物切れであるが、摺上の無銘刀である。
「丈木」を晴れの場で使いたいという子に、父の答えは。
万一狩場で折れでもしたら、加賀の世嗣ぎが無銘の駄刀を差していたと風評されかねぬ。その場限りの寄合大名衆に、丈木の由緒やまことの斬れ味など、わかろう筈がないのである。
「――たれにでもわかる銘の在る名刀を差し申さるべく候」
高徳院利家公以来の由緒刀を、家光の鹿狩ごときで廃物にされてはたまらない。利常の真意は無論そこにある。のだが、それをそのまま口にしてしまえば、いかにわが子であろうとも、将来の四代藩主に対し失礼である。つまり光高の腕では丈木は勿体ないということになるからだ。この話は光高が藩主になってからのことだともいわれるが、そうなれば尚更、侍の死に道具を、ものによって禁ずることは、隠居の利常には出来得ない。父が子の言を軽んずることは、子の威望を損うことに他ならぬ。とも角利常は理由を他に転じ、丈木の佩用を思いとどまらせたのであった。以後丈木は前田家の神宝として、故利家、利常の魂代のように扱われ、藩庫深く蔵されたまま江戸三百年を無事に生きのび現代に至る。泰平期における丈木の史料的な細末の事々の断片は、それぞれの時代の史乗の狭間に鏤められ見えかくれしている。
「無銘」で履歴が残る難しさ
丈木は元北国の猛将長景連の佩刀であった。景連を討伐した一族長連龍の戦利品となり、更にその寄親ともいうべき前田利家に献上された。利家の立身により名物となり、前田家のその後の安泰を得て現代まで保存されるに至った。いかに鋭利を謳われたとしても利家の手に入ることがなければ、おそらく戦場の消耗品として湮滅、名物どころか当今の現存もむずかしかったのではないかと思われる。畢竟するに丈木は利家に愛重されることにより、大多数の刀剣のもつ変転消滅の運命を辿ることなく、その存在を史迹に刻み、利家の死後はその魂代のごとき扱いを得るに至った。いわば丈木は傑出した戦国武将の類まれな精神を今に伝える貴重な遺品である。
以上長々と書いてきたが、本稿で明らかにした丈木刀の諸々の問題を概括すると次のようになる。
○丈木という一風変った刀号の意味について従前は箸の材料の木の謂であるとか、斬ったあとが定規をあてたかの如くに見事であるからとか、他に論ずる迄もない附会の論も交え二、三の説がある。箸の材料も定規を当てた云々の説も共に史料的記録に存しており、積極的な誤説ではないが聊か大雑把である。丈木とは『梅津政景日記』その他古記にいうところの、家根板のいまだひかざるもの―こまかい製材工程を経ていない材木―建材であると解釈した方がより正確である。
○家康と対決の歴史的舞台(慶長四年二月二十八日)において、利家が抜刀咆哮した当の刀剣名を、一般流布本類では〝正宗〟などと誤記しているが丈木が正しく、本稿ではこれを訂正した。また丈木には該刀号が冠せられる以前〝棚木の太刀〟なる号がつけられていたが、所佩者の亡減と共にこの号も消えた。旧号廃滅の貴重な一例である。
○名物刀の作者の名が時代によって転々したという例もまれなことである。今回検討の結果、正真の刀匠名は備前の盛景であることが確定した。故に諸書に記載の美濃金行なる個名は盛景に改められなければならない。本阿弥家の光甫、光室、光温の眼力は今更ながら正確であったことが思い知らされる。
初めから
今回の「名物丈木」は、名物丈木攷(じょうぎこう)(第二回本間薫山刀剣学術奨励基金による研究論文入賞作)・・・・・・『研究紀要』平成10年10月からの抄篇になります。論文はこちらから。(PC環境推奨)
次回からはようやく、上杉家——佐竹家伝来の名刀「典厩割国宗」の論文紹介の予定です。
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