井伊美術館

当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔…

井伊美術館

当館は日本唯一の甲冑武具・史料考証専門の美術館です。徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています。歴史と武具の本格派が集う美術館です。HPは https://www.ii-museum.jp

マガジン

  • 【甲冑話まとめ 】

    甲冑に関連するnote記事をまとめています。

  • 名物・丈木(名物丈木攷(じょうぎこう)

    ○前田利家が戦場で差し、家康との対峙の折にも差して行った「丈木(じょうぎ)」。 その刀はかれの葬儀にも同行しました。 長船盛景と極められた、無銘の大切物(おおきれもの)が持つ秘密について、 史料を駆使して迫ります。 刀剣鑑賞の一考になりますように。 本文は『名物丈木攷(じょうぎこう)』(第二回本間薫山刀剣学術奨励基金による研究論文入賞作)『研究紀要』平成10年10月より抜粋・再構成した小論になります。 本文はこちらから。 https://www.ii-museum.jp/10-10

最近の記事

「井伊家三代」 "厭離穢土欣求浄土"の旗の下

乱世創業 井伊家の三代 ー直政・直継・直孝ー 一、はじめに  井伊家中興初代の直政が徳川家康四天王の一人であり、幕府の元勲であったことは多少歴史に明るい人なら皆知っている。ところが三代直孝は父直政に勝るとも劣らぬ人傑であって、これまた幕府の大立物であったにかかわらず余り世人に識られていない。二代の直継に至ってはまだ誰も取り上げた人はいない。「井伊」といえば「直弼」そして「大老」と、この三つ組の名ばかりが口端にのぼるばかりで、肝腎の家の創業に与った直政、直継、直孝は亡却の彼

    • 伊達政宗の周到 日本ただ一つの作例兜から—

      (一) 戦国武将中、第一の文藻家は伊達政宗だと私は思っている。直江兼続も当代有数の文人であるが、政宗は尚その兼続を凌いで高い。「文」に於ける俊秀ではその筋目を計る作歌のみならず、通常の文章表現でも斬新であって、かつ気配りに満ちている。自筆書状の残存数は戦国武将中、第一ではなかろうか。 文書の一字一句、一条はまことに重要である。戦国の世界をみごとに渡りきった政宗にとって根本のところ、祐筆は信用していなかった。丁寧な自筆が第一である。大坂冬陣に際して、徳川方に属した政宗は大津

      • 『典厩割国宗の場合』 -名物刀剣における伝承の発掘と考察- ①

        今回からは「典厩割国宗」という刀の名について、確とした資料を元に具体的に展開してまいります。本来一体化して研究されるべき歴史と刀は今ほとんど分断されている中ですが——。 一、はじめに  名物刀剣―――と一口にいっても、童子切安綱とか池田の大包平といった天下に隠れない大名物から、由緒を誇る大名家に永らく秘蔵されてきたいわゆる御家名物まで、いろいろあってその範囲は広い。  名物刀剣の名物たるゆえんは、いずれも抜群の切れ味が大概の基本条件になっており、幾多の名将、智将の手を経

        • 名物・丈木(七・終) 

          前回から  丈木のような史上証明済の利刀なら、光高の眼前不意に猪突をくらっても、容易にその首を両断することができるだろう。しかし利常は許さなかった。丈木は大物切れであるが、摺上の無銘刀である。 「丈木」を晴れの場で使いたいという子に、父の答えは。  万一狩場で折れでもしたら、加賀の世嗣ぎが無銘の駄刀を差していたと風評されかねぬ。その場限りの寄合大名衆に、丈木の由緒やまことの斬れ味など、わかろう筈がないのである。 「――たれにでもわかる銘の在る名刀を差し申さるべく候」

        「井伊家三代」 "厭離穢土欣求浄土"の旗の下

        マガジン

        • 【甲冑話まとめ 】
          3本
        • 名物・丈木(名物丈木攷(じょうぎこう)
          7本

        記事

          武士と月

           古来からもののふの信仰対称として選ばれたものに「太陽」と「月」がある。日月への信仰はその「不変」と「普遍」にある。両者とも移動はするが、常に天空にあって消滅しない。  今日(こんにち)ありても明日(みょうにち)の「確実」を信じられない運命をもって生きたサムライにとって、いかなるときもゆるがぬ存在としてありつづけたのが太陽と月であった。  あえていえば月は欠ける。しかし欠けても軈ては必ず満ちる。その姿に明日を、いわば棄てて生きてきたもののふ達は憧れ、一種の信仰をもった。

          「名物・丈木」 六 利家の苦悩と共に

          ——歴史に幾たびも登場する、とある刀の話の続きです。  利家の病状は四日後には遺物の分配を定め、十日後には遺書を書かなければならないほどに重い。そのような窮まった状況の中で尚利家は家康暗殺の企図を捨てきれずにいた。豊家のため、幼若の秀頼の将来にも、家康を除くに如かずという思案が、死期が迫れば迫るほど、利家の脳裡を大きく占めてくるのである。 利家はこの最終的な秘謀を重臣の片山延高に打明け、次男の前田利政にも諮った。だが、片山が反対し、肝腎の嗣子利長にさような大それた冒険心

          「名物・丈木」 六 利家の苦悩と共に

          『名物丈木 五』 -利家vs家康-

           丈木は元北国の猛将長景連の侃刀であった。景連を討伐した一族長連龍の戦利品となり、更にその寄親ともいうべき前田利家に献上された。利家の立身により名物となり、前田家のその後の安泰を得て現代まで保存されるに至った。いかに鋭利を謳われたとしても利家の手に入ることがなければ、おそらく戦場の消耗品として湮滅、名物どころか当今の現存もむつかしかったのではないかと思われる。  畢竟するに丈木は利家に愛重されることにより、大多数の刀剣のもつ変転消滅の運命を辿ることなく、その存在を史迹に刻む

          『名物丈木 五』 -利家vs家康-

          「名物・丈木」(四) 刃切の刀で斬ってみた(人がいた)。

          前回はこちら。刃切の刀を使ってみたら。  ——名物丈木の刀で不思議なのは、本刀が、元来刃切れを七箇所ももちながら名物帳に載せられているということである。そこで次は刀身の刃切れについて、兼々思っているところを、丈木刀にまとわせて話してみたい。  刃切れが刀剣の疵のうちで最も忌み嫌われるようになったのは、いつ頃からであろうか。『名物帳』によれば、丈木の刃切れは七ケ所という。『武器目録』では旧帳の記録四つを記し現今では三つ見えると書いている。これが現在可視の刃切れの状況であるが

          「名物・丈木」(四) 刃切の刀で斬ってみた(人がいた)。

          「名物・丈木」(三)

          前回はこちら。今回は作者の極めの変遷について。三回ほど変わります。 無銘刀の極めは今も昔も非常に難しいのですね。  ——前田家の名物「丈木」の刀は前回記したごとく初代利家二代利長の頃、つまりはじめの頃は三池典太の作とされていた。このように藩祖愛用の頃に極められた筈の刀銘が時代を経て変転してゆく。奇妙である。  利家が死んで間もなく丈木刀は備前盛景と極められた。これを極めたのは加賀本阿弥の祖光山とみられるが、光室や光温でもあった可能性がある。ただ光山が「・・・備前盛景くらい

          「名物・丈木」(三)

          「名物・丈木」(二)

          前回はこちらから。  前回、丈木刀の前田利家佩刀時における霊異を記した。科学万能、文明甚開の現代人には「どうせそんな話は・・・」と、一笑に付してしまう事柄であるが、当時は真物の事件であった。迷信は信ずる者には真実であり、信仰である。まして当時は陰影どころか、到るところ暗処で、その隅々に妖異の主人公が棲んでいた。刀剣の霊異霊験譚は丈木刀に限ったことではないが、この刀におけるそれは、他の朧ろ気な物語より、景色が明瞭である点、特筆に値する。  この刀は「丈木」と号される前、前所

          「名物・丈木」(二)

          「名物・丈木」(一)

           丈木という刀についてご紹介するにあたり、前置として3回にわたって刀剣に対する美意識の変遷について、価値の定められ方について、そして、刃切れについてご紹介しました。いよいよ真打です。「名物丈木攷」を掲載する予定でしたが、こちらを底としてのエッセイが見つかりましたのでこちらをご紹介します。  当館寄託の「丈木」は前田家に伝わり、伝来はもとより七箇所も刃切がありながら名物とされてきました。名前も、そして刀工も転々としてきたこの刀について紐解いてゆきましょう。(全7回予定) —名

          「名物・丈木」(一)

          「川手主水景倫談」

           一昨年ほど前です。滋賀県彦根市郊外にある川手主水景倫という、大坂の夏の陣にて戦死した武将の墓地に、今まで見たことも聞いたこともないことが書かれた看板が建てられました。内容は看板を立てた当人による、「自分の先祖が主水から戦死の前に墓守を遺言されたので、ここを代々管理している」というもの。  あれ、主水の墓は昭和四十年ごろ館長が藪の中から再発見し、地元の史談会有志で整地するまでは草茫々の樹下にあったはずなのに——?寝耳に水どころではない、驚きの内容でした。  長年にわたり館長は

          「川手主水景倫談」

          美に対する視点と寛容 後

          ○刀剣における疵の考え方 ―時代による変化―  刀の疵が、とくに刃切れなどがうるさく云々されるようになったのは、実用を離れた泰平の御代からであるということを我々はもう一度改めて認識しなければならない。侍見栄(さむらいみえ)の第一の象徴といっていいだろう。  現今の刀剣鑑賞の常識はそこから出発したものをそのまま継承しているのである。そしてその鑑賞態度は極言すれば専ら地鉄、刃文の沸え匂い追求に終始している。  武士が身命を賭した闘戦の為に用いる道具である刀剣の実用上の吟味と

          美に対する視点と寛容 後

          「美に対する視点と寛容度」・中

          丈木のお話しの前に、もう少し。 ○ 「刃切れ」についての迷妄 更に丈木とは製材前のかなりボリュームのある木材をいう。 当時の刀剣使用者の大多数は、刀の美に対して思慕などは思い寄せていなかった。地鉄や刃紋の美しさをしみじみと鑑賞する姿勢が決まったのはずっと後代のこと。当時は要するに丈夫で折れず曲らず、斬れることが第一であり、それが刀剣の正義であり、つまりは信頼おくべき美そのものであったと考えていい。 要は実戦時代、刀剣の刃切れは実用上何の問題もないといっていい程、気にか

          「美に対する視点と寛容度」・中

          「美に対する視点と寛容度」・前

           来年の大河ドラマも盛り上がり始めていますね。武将と刀剣のリアルな係りについて、こちらでは前田家に伝わった名物「丈木」についての館長の論文、「名物丈木攷(こう)」抄篇をご紹介しようと思っております。こちらは序篇です。前後二回予定。 ○ 美に対する視点と寛容度 甲冑はやはり飾り置いて鑑賞するものであるから、当然修理の手を入れなければならない。要するに後補の手が入ったキズだらけの不完全品が通常である。 ヨロイの愛好家はその不完全さを責めない。寛容をもってそこに美を見出し楽し

          「美に対する視点と寛容度」・前

          「刀を知るということ」 

           日本刀の撮影は本当に難しく、鏡のように色々なものが映り込みせっかくの刃紋や地金の美しさはちっとも写ってくれません。考えてみたら、それは刀そのもののよう。「刀談剣志録」は館長のつれづれなるままに、様々な角度から、そんな日本刀の姿をデッサンすべく試みたエッセイです。(再録) ○刀を知るということ  いわゆる試し斬りを好む傾向が、武芸嗜好者の中には少なくない。  現在は大概、巻藁【まきわら】が斬られ役であるが、個人的にはこの刀の斬りまくりはあまり好きでない。若い頃、専ら山中

          「刀を知るということ」