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「甲冑記録のとりかた」 井伊家歴代甲冑 朱漆塗桶側二枚胴具足(伝・井伊直孝所用-彦根藩家老印具徳右衛門家伝世-)調査報告から

今回はかつて紙面に掲載した、館長による甲冑調査記録をご紹介します。
甲冑、刀剣は日本の歴史・文化面において大変重要な面を担ってきながら、いまだ学問として殆ど手付かずの領域です。明治維新後散逸の危機にあった甲冑を調査し、まとめ上げた人としては山上八郎、かれの「日本甲冑の新研究」を超える書は未だありません。大著ですのでお手に触れた人もそうはいないだろうと思います。

ここではあえて、館長による井伊直孝所用具足の調査記録をそのまま掲載し、後世甲冑を研究したいと思われる方のために一例として紹介します。

朱漆塗桶側二枚胴具足 調査記録

(伝・井伊直孝所用-彦根藩家老印具徳右衛門家伝世-)

―はじめに―

 直孝所用と称するものに限らず、井伊家ゆかりの人物の着領とするものは少なくない。特に直政や直孝を着用者と称する朱具足の遺品は一や二でないが、大抵が「滅後の一休」のたとえ、その時代を満足させるものがない。伝説の時代まで遺物の古さが届かないのである。今回はそのような所伝ものの中でも、まず時代観と伝承が合格しているとみなされる遺品を紹介したい。重臣印具家に伝わったという伝・井伊直孝具足である(直孝の小伝については先に述べているのでここでは省くが、印具家との係りについては論末で触れる)。

左右上角本 十センチ 一・六センチ
左右下角本 九・二センチ       一・五センチ

厚さはすべて〇・三センチ。左右とも上の角本にのみ天衝の脱落防止の撥条鉄が共鉄で作られている。撥条鉄の長さは七・七センチ、厚さ〇・一センチ。この脇立角本に装着される金箔押の大天衝は、井伊家藩主のものの殆ど全てがそうであるように後補である。長さは約九〇センチ。

天辺の板の中央やや前寄りに共鉄の折釘を設け、また頂辺よりやや後ろに左右二箇所の管頭形金具を共鉄で設けている。これは兜に装着する飾り毛である唐の頭を取り付けるための装置で、折釘に唐の頭裏面に設置された白糸平打の綰を引掛け、管頭形金具に別の白糸平打紐を括りつけて飾り毛を固定した。折釘の寸法は長さ一センチ、兜鉢からの高さは〇・七センチ。また、引廻装着のための真鍮製の鐶を左右と後正中の三箇所に設ける。左右の鐶は錣と眉庇の隙間に取り付けられている。浮張は紅麻に紅糸百重刺。忍緒は紅麻丸絎で忍緒付の綰は洗韋の三所付。

錣(しころ)は鉄朱漆塗板物四段(裏は黒漆塗)で肩刳りはない。吹返は当初より設けていない。札丈は一段目から三段目まで同寸法で、背部中央三・三センチ、両端三・三センチ、裾板の背部中央三・五センチ、両端三・五センチ。威は紺糸で一段宛七箇所懸とする。裏菊と小刻を伴った鍍金の笠鋲二個をもって兜鉢に取り付けられる。

 この兜には先に触れたように白毛の毛頭(唐の頭)と、赤毛を縫い綴じた引廻が附属している。引廻の全体の長さは四一センチ。毛の長さは最大で三十センチ。

 重量は四・五kg。

面具

 鼻下と顎上に糟毛を勢いよく植えた鉄朱漆塗(裏も朱漆塗)烈勢頬である。耳には梅透しの飾りの穴をあける。左右頬下に緒便のための折釘を設ける。折釘の寸法は高さ一・五センチ、折れの部分の長さ一・五センチ。顎下の汗流穴は直径〇・九センチ。

 垂は鉄朱漆塗(裏黒漆塗)切付札四段で威糸は紺糸毛引。耳糸と畦目はなく、菱縫は紫糸一段。札丈は一段目中央二・八センチ、同端二・三センチ、二段目中央二・八センチ、同端二・五センチ(三段目は二段目と同寸)、裾板中央二・八センチ、同端二・一センチ。

重量は四五〇g。

 

 鉄朱漆塗菱綴桶側二枚胴(裏は黒漆塗滑革)である。前立挙三段、後立挙四段、長側五段。胴高は前胴胸板中央部分で三八センチ、胴廻り一〇一センチ(前胴四五センチ、後胴五六センチ-長側一段目計測-)。前後の立挙は紺糸で前五条、後七条に素懸に威し、長側は菱綴として上から朱漆を塗る。鼻紙袋が前胴射向に取り付けられている。胴へは長側一段目に二個、発手に三個、計五個の鍍金の笠鋲をもって固定する。家地は表が海松藍地に杉菖蒲を白く染め出した菖蒲韋で裏は浅黄麻、縁は紺の笹縁。五・五センチの折返しをもって被せとし、被せの中央と鼻紙袋中央部の二箇所から萌黄丸打の綰を出す。本来鞐で懸けていたと思われるが欠失している。鼻紙袋の寸法はたて十八・五センチ、幅は最大で二〇・五センチ(上辺部計測)。前立挙二段目の射向にのみ菊座の乳鐶を打つ。肩上は鉄肩上で、寸法は全長十七センチ、元幅八・五センチ、中央五センチ、手先四センチ。小鰭は亀甲鉄を洗韋で包み、紅糸で花緘を施す。縁は熏韋。馬手の小鰭は表の洗韋が六割程欠け、亀甲鉄が露出した状態になっている。立襟は欠失している。高紐は紺丸絎で、高紐を通す穴は全て四穴。肩上手先の二穴と胸板の上二穴に銅の鵐目を嵌入する。右の責鞐は欠失し、左もわずかに破片が残るのみとなっている。引合せの緒は紺丸打。

 胸板は幅二三センチ、高さは両山部分で六・八センチ、中央谷部分で五センチ。押付板は幅二八・五センチ、高さは中央部分で五・三センチ。胸板・押付板とも於女里を敷いてそれぞれ前後立挙に花緘みに綴じ付ける。胸板中央での縁の返り幅は〇・二センチ。脇板は紺糸で長側に威付ける。

 押付板中央に受筒装着のための合当里(鉄朱漆塗)を備える。受筒と待受はない。また、後立挙の二段目中央に鍍金製の橘模様金具を大座に据え、唐草毛彫の鐶を打つ。大座の寸法はたて五センチ、幅五・五センチ。

 草摺は朱漆塗煉革碁石頭六間五段下り(裏は黒漆塗)。各段裏に補強の敷を入れる。六間のうちの五間の裾板幅が二二・五~二三センチ(一段目の幅は十八・五センチ)であるのに対し、前胴馬手側の一間は裾板幅が十五・五センチ(一段目の幅は十二センチ)となっている。札丈は五・七センチと六センチの二種類が混在する。また、威糸は一段宛五ヶ所懸であるが幅の狭い前胴馬手側の一間のみ三ヶ所懸となっている。揺糸及び草摺の威糸が部分的に萌黄になっているのは、修補のためである。胴の重量は五・五kg。


 鉄朱漆塗(裏黒漆塗)板物五段紺糸威の当世袖である。威糸は一段宛五ヶ所紺糸素懸。耳糸同糸、畦目、菱縫は設けていない。威糸の欠失箇所は黒の木綿糸で仮綴じしている。冠板はほぼ九十度に折った折冠で、折幅は中央で〇・九センチ。寸法は各段とも幅二十センチ、札丈四・八センチ、重ね〇・二センチ足らず。裏には上四段まで裏張を付ける。裏張の家地は表裏とも茶麻で縁は黒韋。袖付の綰は紺丸打。重量は一双で七五〇g。

籠手


 鉄朱漆塗三本篠籠手である。篠は三本とも鎬を鋭角に立てる。冠板は三折式で中央の板左右から籠手付の白丸打綰を出す。笠鞐は左右ともひとつずつ欠失している。鞐の材質は角。上腕部は朱漆塗の筏鉄を散らし、肘鉄は四片の錣鉄を伴った三重の菊座。鎖は黒漆塗四入。手甲は指形を打ち出した摘手甲で、紋金具等は据えていない。手甲裏の指懸綰は白丸打。打合せ緒は白丸打の鵆掛。篠の寸法は、長さが内側からそれぞれ十五、十五・五、十五・五センチ、幅は三本共二・五センチ。家地は表萌黄地金襴、裏茶麻、縁は紺の笹縁。長さ七〇センチ、重量は一双で九六〇g。

佩楯(はいだて)
 朱漆塗煉革四段板佩楯である。一段十二枚の板札を革で緊結し朱漆を塗る。板札の寸法は六・六×二・七センチ。重ねは〇・二センチ。力革や鞭差穴は設けない。一文字韋は於女里を敷いた幅二センチの黒韋。腰緒は薄茶麻の平絎。腰緒の両端が佩楯家地に接する部分は紺糸を懸けて補強とする。紺熏小猿革から出す引上綰は白丸打。家地は籠手と同じく表萌黄地金襴、中込紺麻、裏茶麻、紺の笹縁。札板部分は裏地の茶麻の上に目の粗い紺麻の中込を重ね、さらに茶麻を重ねている。

重量は六〇〇g。

臑当

 鉄朱漆塗七本篠臑当である。篠鉄の寸法は、最長が内側から三本目で二二・五センチ、最短が内側から一本目で一〇・八センチ。最長の篠鉄にのみ鎬を立てる。家地を立挙形にとり、立挙部分の中に厚めの布帛を入れて強度を高めている。中を確認できないため素材は不明。家地は表は金繻子地草花文尽、中込不明、裏は薄黄?。縁は黒の絹。鉸具摺は具えていない。上下の緒は欠失しており、家地はすべて新補である。本来は家地のないものなのかもしれない。

重量は一双で三五〇g。具足の総重量は約十三kg。


 全面を茶漆塗とし、縁角部を薄板で補強し黒漆をかけた木製単櫃。寸法は縦横各四三センチ、高さ五四センチ。櫃の蓋裏に由緒を記した貼紙がある。貼紙の寸法は縦十九・五センチ、幅六・五センチ。
  「久昌尊公御具足
   此御鎧者 尊公御召之御遺物也
  玉龍公ヨリ顕示院殿寛文辛丑年九月為御遺物
  御拝領爾来當家重寶子孫永保肝要大事之事
    慶應丙寅四月 十一代目徳右衛門 嘉重」

○櫃貼付記録について

・久昌尊公―久昌は直孝の法号「久昌院豪徳天英」の頭の二文字。
「尊公」は読んで字の如し。
・玉龍公―直孝の末男で後継となった四代直澄の法号(玉龍院忠山源功)。
・顕示院―印具家第三代徳右衛門治重の法号。
 本具足は直孝の遺物として印具徳右衛門治重が寛文元年(一六六一)九月、後継藩主直澄より拝領したものと云。印具家十一代目嘉重が慶応二年(一八六六)に此 旨を記しているが、時恰も明治の黎明を迎えるに先立つこと二年である。因に印具嘉重は同じく井伊家重臣である宇津木治部右衛門泰交の二男だが、印具家の養子となり千五百石の家督をつぎ藩中老職までつとめた。幕末動乱期に直弼、直憲に仕えた当時の家老連の中では比較的優秀な臣僚であった。

―まとめ―
 装飾をおさえた極めて実用的な具足である。およそ井伊家初政三代(直政・直継・直孝)における着用者生存時同期製作と鑑ぜられる遺物には後代のように普遍的な家紋装飾を付さないものが通常となっている。本品もその典型といってよい。特筆すべきは堅固な造りの試し兜である。重量は直孝所用と伝える兜中最も重く、また鉄砲試射を経た品であることも歴代中現存品としては珍しい。

 直孝は息子(直時・直澄)のために試し具足の注文を南都の春田猪右衛門に命じているが(新修彦根市史-井伊家収蔵文書)、その点から推量しても直孝が同様の具足を注文したことは十分にありうることである。そしてその事実が本作である可能性もある。いずれにしても記録はあっても遺品が他にない点重要な資料といえる。胴背の総角付の鐶の大座の橘文も彦根橘定型前の自由な意匠である点、いかにも桃山の雰囲気を色濃く曳く江戸前期の風趣があって好もしい。

 経年自然の傷みが、本格的修理を経ていないので目に立つようであるが、これがかえっていかにも生ぶ気があって時代観を損っていない。製作時期は甲冑試しが盛行した寛永後期、正保、慶安の頃であろうか。井伊直孝幕政参与全盛期の一領と鑑ぜられ、彦根具足、とくに藩主所用の典型品として貴重な品といえる。

―井伊直孝と印具家及び治重について―

 印具家は井伊直孝の母(養賢院・俗名あこ)の実家である。その父は松平周防守康親の臣印具道重といった。あこは直孝の父直政の侍女であったため、その誕生には波瀾があった。

 一説にあこは直孝認知と引きかえに命を捨てたというが、ともかくこの直孝は生来将器があってやがて三代目の彦根城主となる。

 直孝の成長と共に伸びたのが印具家で、あこの弟徳右衛門高重を家祖とする治重は高重の直孫、つまり直孝の濃厚な親族である。正確な生年が分からないが、印具家譜から推測すると、寛永十一年(一六三四)頃の誕生である。家督は正保二年(一六四五)、十一歳の時分二千石を知行し、直に鷹を許された。

 この時分若年で鷹狩りを免許されるということは、大身衆で身体虚弱では役に立たぬので鍛錬させるという目的もあるが、若年ながら井伊家一方の将として采を揮える才覚があると認められた上での褒章的優遇措置とみるのが一般であった。

 この具足を拝領したとされる寛文元年は直孝逝去し四代直澄治世の第三年で、治重二十七歳頃である。前年の万治三年三月に直澄は彦根藩主として初入部しているが(「彦根年代記」筆者蔵)、治重はその翌年六月士組の頭(侍大将)になっている。本具足の拝領はその三ヶ月後ということになる。治重は元禄八年(一六九五)春まで現役をつとめ、その後隠居、元禄十三年(一七〇〇)八月死去した。享年推定六十六歳、当時としては長命である。

 因に「彦根年代記」、元禄十四年の項に「浅野吉良喧嘩」と国許の「長曽根(祢)火事―十月七日」を載せている。既に直澄は去り井伊家は第五代直興の治世、士風は漸く退廃に向かおうとしていた。

【了】

ーいかがでしたでしょうか?
館長は以前、彦根城博物館が蔵する井伊家歴代甲冑35領を調査記録したことがあります。
その詳細が本になっておりますので、気になる方は下記より見てみてくださいね。

それではまた。


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