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文字を展示する行為「最果タヒ展」

本記事は心斎橋パルコで開催中の「最果タヒ展」を見た感想文です。

最果タヒは近年人気の詩人だ。
しかし、著書は詩集に限らず小説やエッセイ、古典の解説など活動の幅が広い。
特に「夜空はいつでも最高密度の青色だ」が映画化されたのは記憶に新しいだろう。

私も奥手ながら「十代に共感する奴はみんな嘘つき」や「夜空はいつでも最高密度の青色だ」「百人一首という感情」を読んで非常な感銘を受けた。特に「百人一首という感情」は自分の想像力と感性の低さをつくづく思い知らされるものだった。
ちなみに彼女は顔出しをしていないが、どうやら私と同い年で、出身も同じ神戸とあって勝手に親近感と劣等感を感じている。

今回の「最果タヒ展」は福岡を皮切りに東京・名古屋・大阪で順に開催されており、大阪は2021年3月5日~3月25日までだ。
実は去年の6月に京都会場があるはずで、私は行く気マンマンだったが、例のコロナウイルスで大混乱の時期だったため中止になってしまった。
実質、9か月ほどオアズケを食らった状態でマテをしていたというわけだ。

さて実際に展示の内容だが、実は展示会場の撮影が自由というのもあって展示の内容自体はほとんどTwitterで見て知っていた。
しかし、今回の展示はインスタレーションであり、内容を知っているどうこうよりその空間に身を置くことが重要。
どこからでも読み始められて、終わることなくループする円状の詩やオブジェのように立体化する詩、天井から吊り下げられ風や体が触れることで刻一刻と表情を変える無数の詩。というように詩の空間の中を泳ぐように言葉の森をさまようように最果タヒの言葉の中にどっぷり浸かっていく。

この展示は最果タヒの詩を最初から最後まで壁に貼り付けるというようなものではなく、細切れにされた言葉が会場中に散らばっているような状態だ。
これは展示のテーマが最果タヒが詩を作る過程の追体験にあるからで、実際展示の最後にはスマートフォンに文字を打ち込む過程を本人のスマホで見ることができる。

さて、ここから私の感想になるのだが、詩の良し悪しを論じるに能わないので展示方法について感じたことを書いていく。
展示デザインはグラフィックデザイナー/アートディレクターの佐々木俊だ。

先ほども書いたようにメインの展示室では詩の全文が展示されているわけではなく数行や数文字だけが細切れになって吊るされている。
つなげると意味が通る時もあればそうでない時もある。
しかし、厳選された言葉達は繋がっていても単体でも見る人の心を動かす。軽い言い方をすればなんとなくエモい。

文字が垂れ下がっていて人の気持ちを動かす言葉。
なにか自分がよく見る物に似ているなと考えていたら茶室の掛け軸に似ているんだなと気づいた。

お前の話はまたそれか。なんでも茶の湯に結び付けないと気が済まないのか。など言われそうだが、見たもの感じたものを自分の身近なものや生活に引き付けて考えることがオリジナリティであり個性だと思うのでこのまま続ける。

茶室の掛け軸と言えば禅語や漢詩の一節、古典の名文が一行、場合によっては一文字だけ書かれている場合が多い。
しかしながらその一行、その一文字で十分に感じ入ることができる。
なんとなく今回の展示はそれに通じるものを感じた。
(無理があるかな?)
そういえば大昔の掛け軸は屋外の木に吊るすことも多かった。今以上に風にゆらゆら揺られていたことだろう。

言葉がゆらゆら揺れている光景に心動くのは意外と我々の遺伝子の根っこの所に染みついている感覚なのかもしれない。


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