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クリミア危機とウクライナの歴史

現在、ロシアが侵攻している
とされているウクライナですが、
そのきっかけとなった
「クリミア危機」について書きます。

なお、ここに書くのは、
過去に私が読んだ文献から
拾った覚え書き程度の
内容に過ぎません。

私の主張は一切入っておりませんので、
誤解されないようにしてください。
(私自身は、欧米の味方でも
 ロシアの味方でもありません)

この記事を書くにあたって、
参照した本を先に紹介しておきます。

本書は2014年に文藝春秋から
出版された新書本です。

テレビのニュース解説などで
おなじみのジャーナリスト・池上彰氏、

在ロシア日本国大使館での職務経験があり、
外交官を務めた経験もある
作家の佐藤優氏、

このお二人がさまざまな
国際情勢について対談した
内容を収めた本でした。

この本の中で
「クリミア危機」に触れた部分は
約20ページ(P86~104)です。

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ウクライナの反政府勢力

2014年、ウクライナの反政府勢力が
大統領府を占拠しました。

ウクライナの反政府勢力とは、
おもにウクライナの西部の人たちです。

なぜ、彼らは大統領府を占拠したのでしょう。

西部ウクライナ国民の間では、
「ウクライナがEU加盟国になってほしい」
という意見が優勢でした。
(つまり、ヨーロッパと親しくしたい)

ところが、東部ウクライナ国民の間では、
「これまでどおりウクライナは、
 ロシアと親しくしてほしい」
という意見が優勢だったんです。

当時のウクライナの大統領、
ヤヌコヴィッチ氏は、
東部に基盤を置いていたので、
EU加盟の調印を凍結しました。

つまり、「EUには加盟しない」
という意志を示したのです。

これに対し、
反対派の人たちが凍結に対して
抗議をするため、
大統領府を占拠したわけです。

ロシアがクリミアを編入

反政府勢力が大統領府を占拠したことにより、
親ロシア派のヤヌコヴィッチ氏が
大統領を解任されます。

すると、ロシアのプーチン大統領が
ウクライナへの干渉をはじめました。

ウクライナのクリミア半島に
ロシア軍特殊部隊を派遣したのです。

なぜ、ロシア軍を送ったのかというと、
ウクライナにいる
「ロシア人を守るため」でした。

※ウクライナにはウクライナ人だけでなく、
 ロシア人も住んでいる

その後、クリミア半島の
クリミア自治共和国では、
ロシア軍に守られながら、
住民投票が実施されました。

この投票は
「クリミアのロシア編入」の
是非を問うものでした。

投票の結果、
クリミアはロシアに編入されました。

ウクライナの歴史は東西で異なる

池上氏、佐藤氏の対談では、
「この事象を読み解くには、
 ウクライナの歴史を知る必要がある」
として、歴史を振り返っています。

その昔、ウクライナは、
肥沃な黒土に恵まれた
穀倉地帯として知られ、

周辺の国々からたびたび、
攻撃されたり、占領されたり
と悲劇の歴史を重ねていたそうです。

今のウクライナが東西で
政治的な主張を異にしていること
からもわかるように、
東西で辿った歴史が異なります。

※現在のウクライナは
 東部=親露派が優勢
 西部=親欧米派が優勢

ウクライナ東部は、
帝政ロシアに占領され、
その後、ソ連に組み込まれました。

ウクライナ西部は、
ポーランドに占領されましたが、
ソ連とドイツがポーランドを分割したため、

最終的には、ソ連がウクライナの
西部と東部を併合する
という歴史を辿っています。

ウクライナの最西部・ガリツィア

佐藤氏の発言によると、
ウクライナの最西部には、
「ガリツィア地方」というところがあり、

ウクライナに関しては
「ガリツィア」と「それ以外の地域」に
わけて考える必要があるそうです。

※ガリツィアはウクライナ全体の
 7分の1にもならない面積

帝政ロシアが占領した
ウクライナ東部では、
ロシア語化政策がとられ
「ロシア語教育」が実施されました。

特に、書き言葉としての
ウクライナ語が禁止され、
東部のウクライナ人は
ロシア語を使うことになります。

なぜ、ロシアが
こんな政策をしたのかといえば、
ロシアの影響力を強めるためです。

一方のガリツィア(最西部)は、
オーストリア=ハンガリーの
ハプスブルク帝国に属していました。

ハプスブルク帝国は、多言語主義で、
ドイツ語、ハンガリー語、
チェコ語、ポーランド語とならび、

ウクライナ語も公用語として
認められていたのです。

長くなるので割愛しますが、
ウクライナは地域によって
属した国が異なるため、
宗教の面でも違いがあります。

東部、南部のウクライナ人は、
ロシア語を話し、
ロシア正教を信仰する
という文化だったのです。

こんなところから、今日でも
ウクライナ東部が親露派であることが
理解できますね。

その後、ガリツィア地方も
ハプスブルク帝国→ポーランド領を経て、
ソ連軍の侵攻を受け、
ロシア領となりました。

長くなってしまったので、
ウクライナの歴史については、
引き続き、
別の記事に書かせてもらいます。

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