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単なる冒険活劇が、どのようにして「インディアナ・ジョーンズ」という名の冒険物語へと昇華していったのか

 すでに伝説と化しているが、1977年の6月にハワイで休暇中だったジョージ・ルーカスとスティーブン・スピルバーグが共に過ごし、スピルバーグの「007のような映画が作りたい」という思いにルーカスが応える形で「実はこんな企画があってね・・・」と話が進んで…という話は、間違いではないんだけど、スピルバーグが「007のような映画」という言い方をしたのには訳がある。

 この頃、007の最新作「私を愛したスパイ」は公開直前だったが、スピルバーグはすでに「007の次回作を監督したい」と立候補していた。実際に彼は007シリーズの製作プロダクションであるイオンプロのプロデューサー、アルバート・R・・ブロッコリと面談もしていた。しかし「007を任せるにはキャリア不足」なのと、そもそも当時の007映画の監督の条件であった「イギリス人監督」ではなかったので、相手にされなかったということがあった。

 こうした背景があってルーカスとスピルバーグの「ハワイでの会話」に繋がっていくのだけれど、この時点でルーカスは自分のアイデアをスピルバーグに託す気になっていて、すでに「3部作でいこう」というところまで決めていた。ただルーカスはスター・ウォーズの続編が先に作らなければならなかったし、スピルバーグも「未知との遭遇」を完成させ、すぐにコメディの「1941」の仕事が控えていた。というわけで2人の「冒険活劇映画企画」は数年後に先送りされることとなった。

 1980年になると「レイダース 失われた聖櫃」とタイトルも決まった冒険映画企画の制作は本格化する。インディ役も本命のトム・セレックが出演できないことが判明した後、「帝国の逆襲」の試写を観たスピルバーグがハリソン・フォードこそ適任だと閃き、「アメリカン・グラフィティ」や「スター・ウォーズ」でもフォードを起用していたルーカスは、当初は渋っていたものの、最終的には賛同することになる。

 1981年に公開されるや「レイダース」は大ヒットとなり、批評家も大絶賛していた。日本では年間興行成績ランクでは8位という振るわない結果で、「ブッシュマン」が1位、続いて「セーラー服と機関銃」「キャノンボール」「ハイティーン・ブギ」「ロッキー3」「少林寺」「大日本帝国」となっていた。世界では圧倒的に「レイダース」がヒットしていただけに、日本人のあまりの情弱ぶりに当時はファンとして頭を抱えたものだった。その後、廉価版ビデオソフト販売やレンタルビデオ文化がスタートしたことで口コミで面白さが広がっていき、第2作の「魔宮の伝説」ではようやく日本でも安定した人気で大ヒットシリーズとなった。

 第3作の「最後の聖戦」では初代ジェームズ・ボンド役者だったショーン・コネリーがインディの父親役で登場し、そもそもの「007のような映画を作りたい」というスピルバーグの思いを考えると、コネリーの起用は正に「インディの父」にふさわしい人物だったので、このキャスティングは喝采で迎えられた。
 もちろん映画も大ヒットし、当初3部作と言われていたシリーズの全容も2本追加されて5部作という予定に変わっていた。ショーン・コネリーも「インディの父親」というキャラクターを大いに気に入ったので、このシリーズのためなら必ずまた出演すると明言していた。

 この時点でルーカスとスピルバーグ、そしてハリソン・フォードの3人の間ではある取り決めが成されていた。それは「3人全員が同意しない限り新作は作らない」というものと、「ルーカスが製作総指揮と原案、スピルバーグが監督、フォードが主演という役割分担は変えない」というものだった。

81年に第1作、84年に第2作、そして89年に第3作という順番で快調に進んでいたシリーズだったが、多くの関係者が第4作を望んでいたにもかかわらず、製作はここでストップしてしまう。決定打となる題材探しが行き詰まってしまったのが原因ではないかと思うし、一時、日本の「崇徳天皇の呪い」を題材にすることも検討されたらしいが、これも頓挫している。それでも企画開発は進められており、1995年には第4作の脚本も一度は完成している。

 これは「インディアナ・ジョーンズと火星人の空飛ぶ円盤」といういかにもSFなタイトルのもので、1949年のインドネシア、ボルネオから物語は始まるんだけど、「レイダース」の土台となった1954年の映画「インカ王国の秘宝」のヒロイン「エレナ」を踏襲したと思われる「エレイン」というキャラクターが出てきたりする他、軍隊アリに襲われたり、インディの結婚式があったり、核実験による爆発があったりなど、後の「クリスタル・スカルの王国」に流用されているアイデアも多く、掠われた花嫁を追いかける場面では、空き缶をたくさん繋いだ車に乗っていくという、今回の「運命のダイヤル」に使われた要素もあった。しかし一番大きなポイントは不時着した宇宙人の船にまつわるソビエトとの争いであって、これは「クリスタル・スカル」の主要な要素として再利用されることになった。
 話を「火星人」に戻すと、この企画はとにかく第3作の「最後の聖戦」からはあまりにもかけ離れた世界観だったし、スピルバーグもフォードも気に入らず。結果的にこの企画はボツになった。この宇宙人絡みのSF風味はルーカスの意向で、スピルバーグはそれまでのテイストを踏襲したかったらしい。しかしもしこの時点でこの企画が映画化されていれば、それまでの3作と同じく「冒険活劇」としての立ち位置は不変だったと思う。しかしその後10年以上も経過してしまうことになるので、シリーズの「冒険活劇」という根幹は、その是非はともかくとして揺らいでいくことになる。(2003年にはフランク・ダラボンが「インディアナ・ジョーンズと神々の街」という脚本を書いたが、これはほとんど「クリスタル・スカルの王国」に近い内容になっており、より優れた出来だったと思えるのだが実現しなかった)

 2005年、ルーカスがアメリカ映画協会の生涯功労賞を受賞した際、ハリソン・フォードはスピーチで「早くインディ4を作ろうよ!じゃないとショーン・コネリーが死んじゃうよ!」と懇願し、会場の笑いを誘ったが、その翌年にコネリーは出演を熱望していたものの引退してしまう。
 結局2008年の公開に向けて製作は行われたが、コネリーの引退を撤回させることはできなかった。そして、それ以上に1989年の前作から19年が経過したことで、シリーズには強制的に変革が必要になった。主人公を演じるフォードがすでに65歳という高齢になっていたため、シリーズの売りのひとつだった派手なアクションを以前のように行うのはもう無理だった。フォード自身は極力自身でアクションシーンを演じたが、かつてのような切れ味が再現できるはずもなかった。その代わりに「インディの息子」を登場させて不足分を補うことになり、息子が登場するなら母親が必要なので、というわけで第1作以来のマリオン再登場となった。

 007の例を考えるなら、人気シリーズを継続させるためには、主人公の俳優の交代劇が必須となるのだが、インディの場合は前述した三者協定があり、特にハリソン・フォードのこだわりは非常に強いため、他の役者に譲るなんてことはあり得ない状態なのである。
 こうして年老いたインディの冒険は「エイリアンがでてきちゃおしまいだよ」というファンの反発もあり、公開時にはちょっとした炎上騒ぎにもなった。
 これに最も強く反応したのがスピルバーグで、それまで順風満帆なキャリアを積み上げてきた彼にとっては初めての経験だったし、公開直前にも、スター・ウォーズの新3部作でファンから袋だたきに遭っていたルーカスを見てきているだけに「ああはなりたくない」という思いがスピルバーグには強烈にあったんだそうだ。ルーカス自身は慣れたもので、「そんなに気にすることないさ」となだめたりしていたそうなんだけど、スピルバーグは炎上を恐れ、そして結局は炎上してしまったことでパニックに近い状態になったそうだ。ルーカスとは学生時代からの親友同士だったが、「2人がケンカしたのを初めて見ましたよ」と関係者が唖然とする状況だったそうだ。
 まあ、そもそもエイリアンネタには反対していたスピルバーグだっただけに気持ちは分からないでもないが、それでもちょっと過剰反応だったと思う。今回の最終作でも「若い才能の可能性も見てみたくて・・・」と監督降板の理由をもっともらしくコメントしていたが、本心は今回も炎上することを恐れていたんじゃないかと思っている。

 さて、2012年にルーカスはルーカスフィルムをディズニーに売却し、新たにスター・ウォーズの3部作が製作されることが発表された。この時、ハン・ソロ役としてハリソン・フォードが復帰することがニュースとなっていたが、フォードはハン役を再演するにあたって「インディの新作を必ず作ること」を条件にしていた。このため、来るべき「インディ5」はさらに高齢なインディアナ・ジョーンズを描かなければならなくなったし、これによって「インディ5」のあるべき姿が運命づけられることにもなったのだ。

 「運命のダイヤル」でシリーズが完結した現在、振り返ってみると、最初の3部作が典型的な「冒険活劇」だったのに対し、4作目の「クリスタルスカルの王国」が大きな転換点となっていることに気づく。インディの息子を登場させるためにマリオンを再登場させたことは、ファンサービスとなっただけでなく、劇中のインディのプライベートにも新たな物語が加わることになったのだ。それは「最後の聖戦」で描かれた「父と子」の物語以上に重要となる、「インディの結婚」という要素だ。「冒険活劇」の主人公が家庭を持つことは、「活劇という物語の死」を意味する。007の原作者イアン・フレミングが「女王陛下の007」でボンドが結婚した直後に花嫁が射殺されてしまうという場面を描いたのは、ボンドを活劇の主人公としてその後も「生かし続けるため」の方策だった。ではインディの場合はどうなのか。
 今回の「運命のダイヤル」では、この「活劇の主人公としての行く末」がどうなるのかが実は最大のテーマとなる。前作で結婚したマリオンとは、息子を戦争で失ったことで関係が悪化し、その結婚生活は破綻を迎えようとしていた。だからインディには現世に対する執着はすでになくなっている…
 というわけで、シリーズ最終作とされる「運命のダイヤル」は、単に「インディの冒険」を描くのではなく、「インディアナ・ジョーンズという男の人生」が描かれることになったのである。

 老いてすべてを失ったと思っていたインディにとって、歴史上のあらゆる宝物よりも大切なものがあること、そして本人さえもが取り戻すことを諦めており、その彼の人生で最も大切な「宝物」を描くために、今回の「運命のダイヤル」は存在する。だからこそ、これまでのシリーズと違って「運命のダイヤル」はアクションよりも、インディの物語に軸足を置いているのである。
 その終幕はこれまでの作品とは異なり、ゆったりと、そしてとてもやさしい形で描かれる。老いて満身創痍となった1組の男女が寄り添う形で真のゴールを迎える。それは「活劇」ではなく「インディアナ・ジョーンズの人生」という長い物語の結末だからなのだ、とエンドクレジットを眺めながらしみじみ思うのだった。

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