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実写版「美女と野獣(2017)」の脚色が賞賛されるべき理由

 童話の「灰かぶり姫」を独自に脚色した1950年の映画「シンデレラ」はディズニースタジオの第1期黄金期を代表する一本になった。同様にヴィルヌーヴ夫人の書いた民話を再編して世に知られるようになったボーモン夫人の「美女と野獣」を大胆に脚色した1991年の「美女と野獣」は、ディズニーの第2期黄金期を代表する作品になったことはもちろん、長編アニメーション作品として初めてアカデミー作品賞にノミネートされたことからもその完成度の高さがわかる。

 さて、2015年にディズニーは「シンデレラ」を実写映画化し大成功を収めた。その勢いのまま、続いて「美女と野獣」が実写化された。そしてそれは「シンデレラ」がそうであったように、単なる実写化に止まらない見事な結果をもたらした。

 これぞ映画!これぞミュージカル!

 アニメ版「美女と野獣」はただでさえ傑作アニメーションだったけど、実写版はそれ以上の出来と言っていいと思う。男としてこの作品を評してこう言うのはちょっと憚れるけど、観ている間はまさに「夢のような時間」だった。その夢のスイッチが完全に入ったのは、アニメバージョンを完全実写化した「ひとりぼっちの晩さん会(Be Our Guest)」のシークエンスからで、その見事な映像化に「よくぞここまで・・・」と唸りっぱなしだった(ポット夫人がエスター・ウィリアムスに見えた)。

 そしてあの「ビューティー・アンド・ザ・ビースト〜美女と野獣」・・・アニメ版でさえ息を呑む美しさだったこのダンスシークエンスでは、あまりの素晴らしさにいつの間にかはらはらと落涙していた。

 本作の主人公である「野獣」は劇中でも典型的アウトサイダーなんだけど、「美女」であるベルもまた、村では「変人」として知られるアウトサイダーであり、その宿命として両者とも孤独な生活を送っている。そんな2人を結びつける共通点として設定された要素が「読書」であり、この絶妙な脚色はディズニーによる勝利だと思う。

 人の人生を向上させるものとして必須な3大要素は「旅」と「恋愛」と「読書」である、と言ったのは直木賞作家の故なかにし礼氏だが、逆に言うならば「読書をする人=変人」としか見做さない村人たちは「無知な存在」であり、彼らは未知なる物に対する「無知であるが故の単純な恐怖」から、後に野獣狩りを行ってしまう。この時点で「真の野獣」となりうるのは、ガストンに代表される「無知な大衆」であることを我々観客は思い知りますが、それほどまでに彼らの言動は醜いものだ。

 「本を読めば世界中のどこへでも行ける」と語るベルの主張を理解できるのは、彼女以上に読書をしてきた野獣しかいないし、野獣の書斎に通されてその蔵書の数々を目の当たりにしたベルの感動は、まさに「学習することの喜び」を知る者しか味わえないもの。

 今の時代にこのことが大きな意味を持ってくるのは、読書というものが「ページをめくって読む」という動作を伴う能動的なものであって、昨今のSNS等における「シェア」のような、知らぬ間に目の前に現れて、その見出しだけ「(読むのではなく)見て理解した気になる」という受動的なものとは根本的に異なるからだ。こうした受動的反応しかできない人々こそが、劇中における「野獣狩りをする人々」になりうることを我々は心にとめておくべきだと思う。


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