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泣き声は成長のリズム

 視力のあらぬ疑いから、目の検査が行われた。本当に必要なのかと問いたくなるが、医者たちにはそれが研究の一環なのか、何かのプロットなのか、いずれにせよ彼らには理由があるのだろう。息子は泣きまくっていたそうだ。何を見たのか、何を見てはいけないのか、そんなことをこの歳で考える必要はないと思うが、どうやら視力には問題なかった。

 「ほらね、問題ないでしょ?」と言いたくなる。一般的に視力に問題が出る年齢ではないからな。でも、この瞬間の息子は、泣きながらも何かを「見て」いる。何を見たのか、その目には何が映ったのか、それはきっと小さな冒険だ。

 妻から写真や動画が送られてきた。息子の顔がふっくらしている。ちゃんと栄養を吸収できている証拠だ。ふっくらしてきたとはいえ、その顔には幼さがあり、未来への期待が詰まっている。元気そうな顔を見て、何となく安堵する。少なくとも、その顔は「今、この瞬間を生きている」と言っているようだ。

 そして、首が座り始めているとの報告。あれほどゆるゆるだった首が、自らの力でしっかりと支えられるようになるなんて。息子よ、何を見て強くなったのか、何を考えて成長したのか。首が座るというのは、その後に歩き、そして走り出すプロセスの始まり。ひょっとして、このまま独立して家を出る日が早々に来るのかもしれない。しかし、父が抱っこできない間に首が座るなんて、少し寂しい思いだ。

 視力が確認され、首が座る。それは成長の一環で、それぞれの段階がひとつひとつの成果である。息子よ、泣きながらでも見たものは見た。その眼には、これからの成長への期待と、今この瞬間を楽しむ喜びが詰まっている。

 だから泣いてもいいんだ。泣いて、笑って、見て、感じて、成長していくんだ。そうすれば、その目で世界がどれだけ美しく、どれだけ厳しく、どれだけ楽しいものかを知ることだろう。それが人生の美味しさ、その一端なのだから。

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