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未来に怒るかもしれない人たちへ【マガジン配信記念・無料記事/普通盛り】

「みんな」ってどれぐらいいるの?

心の中で思っていることを言葉にするか、しないか。人は、この選択をいつもしているのだと思います。

例えば。

何らかの食事会や飲み会があったとして(この会つまらないな、この人の話つまんない。帰りたいな)と思っても

「今のあなたの話がちょっと威圧的でつまらないので、この会もつまらなくなってます。なので私はそろそろ帰りたいです」

などと、ほとんどの人は本気では言わない。

言わないからその会の秩序のようなもの、そこにいる人々の人間関係は、その先も保たれる。

どうしても帰りたくなったら「この後用事があるので」とか「明日が早いので」とか誰も傷つかないように聞こえる理由を伝えて帰る人もいるだろう。

いいか悪いかは別として、そういう無数のさりげない気遣いやちょっとした我慢で社会は秩序を保たせていることも多い。

過去に誰もが心に思ったことを言葉も選ばず声にしていたら、とんでもない争いが起きて国のひとつやふたつ、いや、世界だって終わっていたかもしれない。

我慢のおかげで成り立っていることもある。

でも、何かしらのとても悲しい気持ちやひどい状況を、こらえきれなくなるくらい我慢したら自分が壊れる場合もある。

「声を上げよう!」なのか(我慢しよう)なのか。

ちょうどいいところをとりたいが、今、過渡期で、世界はその答えを極端な形でどっちかに決めなければならない空気がある。

とても大切なことを、早急に明確に計算式のように出そうとしている気がしてならない。

私はそれがとても怖いのです。

とにかく今は、びっくりするぐらいちょっとしたことでも様々なことに対して、

「声を上げよう!」

と言っている人たちが沢山いるような気がして、賛同する人たちも沢山いるように見える。

その存在にどこか常に怯えて、怯えることにすら慣れて、私の心の声はいつの間にかとても小さくなっていることに気づいた。

そして明確さを求めるその人たちが、本当に「みんな」と呼べるくらい沢山いるかどうかは、直接見たり会ったり話したりしていないのでよくわからない。

以前、ある有名人がただの誤解でCMまで降りることになった

「大炎上」

という状況を関係者が調べて行ったところ、何万件という批判は10数人によって行われていたのだったという事実を教えてもらった。

事実を説明したところで、世間的イメージは回復できないとのことで降板は降板のまま。

とても気味の悪い出来事です。

不確かな亡霊みたいな存在の仕業で、現実がねじ曲がるみたいなことは、もはやホラー。

会ったこともない、見たこともない人たちの言葉に人々が影響されて誰かを判断するって、幽霊の言葉を信じるよりタチが悪いと思う。

なんなら、幽霊に対する怯えのほうがまだ「インチキかも」「気のせいかも」と思う心の余白があるから。

生きた人間10数人がうまくやれば、その上げる声は呪いとなって、時として人の大切な職を、表現の場を奪うこともできる。

そして、これは誰にでも起こりうることだと思う。

名前と顔を出して表に出る仕事じゃなくとも、誰かの意見や、批判されるかもしれない気配に悩まされている人は多い。

たとえば、仕事をしていて過剰なクレームに悩まされたり、なんでもかんでもパワハラ、セクハラと言われてしまうかもしれないことに怯えている人。

そのせいで、自分の力を発揮できず、一見普通に、なんなら明るくさえしているものの、心はそっと小さくなっている人たちが私のまわりにもいる。

この今の空気に、何か防止策はあるのではないかと私自身考えることがよくあるし、まわりの人たちともその話題になることがとても多い。

けれど、なかなか答えは出ない。

出ない答えを急いであれこれ考える前に、正直な気持ちを、焦らず丁寧に綴ろう。そう思えるようになってきました。

その場所が、ここnoteの『ここだけでしか話さない内緒話』です。

「※この後スタッフ全員で美味しく頂きました」の時代

物事には、時として、グレーゾーンや助走の部分やあそびの部分や笑って済ませられることがあったほうが快適であると私は思っています。

先日、商用施設のとってもきれいなクリスマスイルミネーションの中に

「シャボン玉が出る演出があります」

というようなことが書かれた看板が、だからたのしいよーっていうテンションではなく、まじめな注意書きとして立っていた。

シャボン玉はたしかに科学的なものが入った液体で出来ている。
だからこれは、シャボン玉が出てきて服についたとか、突然のことでびっくりしたとか、何かわからないものが飛んできて安全かどうかわからないとか、そういうご意見が出るかもしれないのを考えてのことなのかもしれない。

でも、その看板のせいで、人々は事前にシャボン玉が出る演出を知ってしまう。何も知らずにいて「ひゃあ、なにこれ、シャボン玉だ! きれい」と、思う初めての感動は得られない。

わあ、シャボン玉が出てきたね、びっくりした!
服について弾けた、あははは!

それではダメなんだろうか。

もちろん……
びっしょびしょになるほど水が飛び出るであるとか、炎が突如ボーボーでるとかなら別だ。演出で起こることを伝えた方がいい時もあるだろう。

『だからもちろん、これは危険ですとか、ダメなことはダメであるとか、これはありえないよってことには声を上げるべきだとは私も思います』

これ!

『』で書いたこの部分。
今、こういう場で、伝えたいことを言葉にしようとしている時、この『』のようなことを、あらゆるシーンにおいて立て看板のように入れなくてはならない、明確にしなくてはならない雰囲気が息苦しく、時々怖さすら感じる。

そして『』的な言葉を入れなければならないという明確な決まりはない。
明確な決まりはないのに、今は物事に明確さがなければ受け入れてもらえないこと、もしくは非難されることすらあるのです。

ややこしいこの独特の雰囲気。
誰もが揚げ足を取られないように必死になる空気。
見慣れたところで言うとTVの

『※CM上の演出です』
『※この後スタッフ全員で美味しく頂きました』

みたいなことを、人々はTVではなくとも日常生活のあちこちで沢山言わなくてはならなくなりました。

けれども、それをいつ言わなきゃいけないのかははっきりわからない。

例えばTVで例えると、ケーキにぐちゃっと顔を押し付ける映像や、食べ物をたくさん使った実験シーンなどで「この後スタッフが美味しく頂きました」と入れなければ怒られるのなら……苦しい苦しいもう食べられないと言いながら無理やり大食いをしたり、そのお店のメニューの人気順位を当てるまできつくても食べ続けなければいけないとかはなぜいいのだろう。

基準がわからない。

このわからない基準の中で、いつ誰が怒り出すかわからないからとびくびくしながら『』を常に意識しつつ文章で表現することを続けて行くのはだいぶつまんないかもな、とここ数年思い始めていたのが正直な気持ち。

TVでコメンテーターをさせて頂く時も、ひとたび「人を怒らせてはならない」と思ってしまうと、こう見えても一番言いたいことは反射的に心の中にしまうようになりかけていました。

世の中の人、とにかくなんだかみんな怒る材料、間違っていることを常に厳しく探しているように見える。

だから、そのレーダーに引っかからないように生きて行くほうが無難に思えていたのです。

そんな自分、気持ち悪い。

でも、みんながみんな怒っているわけじゃないし、怒りたいことを探しているわけじゃないはず。

これはきっと一部の人たちが作り出しているだけの可能性が高い。
そして、その存在に怯える心がそこにエネルギーを与えてしまっている。
怯えた段階で、私も当事者だ。

この空気の中で、できるだけそこに加担しないようにしながら、静かに自分の心を穏やかに保つよう努力しながら生き延びている人たちが気兼ねなくいろんなことを思い、楽しめる場所が少しでも増えていったらなと心から思います。

そして、自分自身もそういう場所の風通しがよくなるよう、今の世界の空気に飲み込まれず言葉を綴ろうとnoteを始めることにしました。

世の中おかしい。私は世界を変えるんだ!

みたいな大それたことではなく、私は私で、こつこつ自分のできることをやって、ひとりでも多くのびのびと楽しんで下さる方がいらっしゃったらありがたい。

そういう気持ちです。

なので、このマガジン中では、この先、書きたいことを書きたいように綴ります。
そこではもう『』ナシでいく可能性が高いです。

許せ!

と、未来に怒るかもしれない、見たこともない会ったこともない、どこかの誰かに言っておきますね。

せっかく同じ時の上に立っているので、もしできることなら仲良くしたいです。

お前とはどうもあわん。ここで別れだ!

という方は、どうかお元気で。
何かのおりにあいつなにしてやがると思い出したら、またぜひ来てください。
いつでも大歓迎です。
ということで、

ここだけでしか書かない内緒話。

スタートします。
出会う皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
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