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秋刀魚のほろ苦さ。

つい最近、こんな記事を書いた。

これ以来古典的日本映画に少しずつ手を伸ばしている。

そんな中、早くも傑作に出会うことができた。

それが小津安二郎監督の『秋刀魚の味』である。

小津安二郎監督の遺作となった本作では、結婚を巡る父娘の関係性を主題に人生の孤独が丁寧に描き切られている。

今回は僕が考える『秋刀魚の味』の素晴らしさについて少し書こうと思う。


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着眼点①:構図と”空白”による無言のメッセージ

物語の内容以上に僕はこの点において非常に感動した。

まずこの作品では同じ構図が繰り返し用いられていて、登場人物たちに起こる変化が際立って伝わってくる。

同じ構図というのは、まるで定点カメラのように決まったアングルから撮影されていることで、例えば仕事中の様子は真横からとか家の中の様子は廊下の奥からとかなどのパターン化されたシーンが多いということだ。

登場人物たちの日常生活を一定の規則に基づいて撮影することで、ストーリー展開とともに変化する登場人物たちの些細な変化が生々しく浮き彫りになってくる。

”空白”の見せ方についてもこれに通じる部分がある。

小津作品における”空白”とは人との別れを象徴する技法で、『東京物語』では父母が子供たちの家からおいとましたことや妻に先立たれた老父の孤独を、画面に”余白”を持たせることで間接的に表現している。

『秋刀魚の味』でも娘が家を出たことを空っぽになった部屋として間接的に見せることで、空虚さが強調されて伝わってくる。

またストーリーの合間には人が映っていない風景のみのショットが度々挟まれており、流れゆく日々や変わっていく人間関係と対比された存在も確かにあることが示されている。

それらが台詞以外の無言のメッセージとして、見る者に”老い”や”人生の孤独”を訴えかける。

この静かなる迫力に僕は魅了された。


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着眼点②:父と娘の関係性

ストーリーの主軸は、妻に先立たれた男が娘の縁談に向き合うというものだ。

戦後の日本という時代背景もあり、どの家庭でも女性が全ての家事をこなし男性に尽くすことが当たり前とされる様子が随所に見られる。

したがって、一家の娘は妻を亡くした父や男兄弟の世話をしなければならず、彼女が婚期を逃して家のために働き続ける未来は目に見えていた。

しかし、一人娘に頼りすぎてしまった反面教師的な家庭や次々と嫁ぎ先を見つけていく知り合いを目にする中で、父は娘の縁談を真剣に考えるようになる。

最終的に娘は嫁ぎ先を見つけて家を出るのだが、そこに至るまでの父の心の揺らぎが哀しくも面白おかしく描かれていている。

父娘関係にしか成立し得ない特別な美しさや儚さに気付かされるはずだ。

現代にも通ずるその普遍性に心を打たれてしまった。


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着眼点③:先進的な思想

先程も書いたように時代は戦後。

ストーリの中にも戦争にまつわるやりとりが幾つかある。

その中で小津安二郎監督は「日本は負けてよかった。」と登場人物に言わせている。

正確なことは分からないが、これをあの当時世に発表することは結構先進的な試みだったのではないかと思う。

また男が絶対という文化が色濃くある時代において、”男の幼さ”に対する指摘とそこからの脱却を描いたという点も先進的だと感じた。

男でも自分のことは自分でする。
妻も夫と対等の立場で物申す。

『秋刀魚の味』は日本の生活様式史の転換点ともいうべき瞬間を切り取っているのかもしれない。


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最後にタイトルについて触れようと思う。

『秋刀魚の味』では作品中に秋刀魚は一切出てこないし言及もされていない。

このタイトルには一体どんな意味があるのだろうか。

調べたところ小津安二郎監督は映画タイトルに関してこだわりがあった訳ではなく、特別な意味もなく感覚で決めたタイトルも多いらしい。

小津作品には”秋”をタイトルに据えた作品が特に多い。

『秋刀魚の味』も小津安二郎監督の内なる繊細な感覚が生み出したタイトルなのだろう。


歳を重ねて初めて気づく孤独。
人生はどっちに転んでもほろ苦い。

どこか切ない気持ちになる秋のように。
ほろ苦い秋刀魚のように。

僕はこのように解釈している。


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もうすっかり小津作品の虜になってしまった。

今後も心奮わせる体験を求めて古典映画を楽しもうと思う。

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